昨日は3.11。東日本大震災から6年が経過しました。
先日もこのブログで書きました、東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられた高村光太郎文学碑(平成3年=1991建立)の魂を受け継ぎ、宮城県女川町内に「千年後のいのちを守るために」と建てられ続けている「いのちの石碑」の件で。
まず、昨日の未明、NHK総合さんで放映された「被災地からの声 宮城県女川町」を拝見しました。
進行は津田喜章アナウンサー。23分間の番組でしたが、はじめに「いのちの石碑」の件が取り上げられました。
かつて光太郎文学碑が建っていたあたりの映像です(下の画像も)。
そして、高台に建てられた「いのちの石碑」。
その他、「女川光太郎の会」現会長の須田勘太郎氏がお住まいの、同町出島(いずしま)のレポートもありました。震災前、約500人いた島民は約90人に激減、小中学校も統合で無くなってしまったそうです。当方、女川には年に一二度お邪魔していますが、島嶼部には行ったことがありません。いずれ、須田氏に案内していただこうと思いました。
6年前の映像とともに、他にも女川町民の皆さんの「声」が多数。見応えがありました。
昨日は、『朝日新聞』さんの別刷り「東日本大震災6年」でも、「いのちの石碑」が紹介されました。
プロジェクトのメンバーで、海上保安官を目指すという、山下脩さん。巨大防潮堤の建設という道を採らなかった女川町のキャッチフレーズ「わたしたちは海と生きる。」を地でいくようで、ジーンと来ました。
再びNHK総合さんで放映で放映された「被災地の声」から、出演された阿部由季さんの「声」。
まさしくそのとおりですね。
明日も「いのちの石碑」関連で。
【折々のことば・光太郎】
首が欲しい、 てこでも動かないすわりのいい首
詩「首狩」より 大正14年(1925) 光太郎43歳
この後、「○○な首」「××の首」というフレーズが10行続きます。「なんじゃ、そりゃ?」という感じですが、種明かしをすれば、彫刻のモデルとしての「首」を求めているわけです。いずれご紹介しますが、光太郎、電車に乗っても他の乗客の「首」が気になってしかたがない、的なことも発言しています。天性の造型作家としての、ある意味、宿業のようなものですね。