昨日のこのブログで、東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられた高村光太郎文学碑(平成3年=1991建立)の魂を受け継ぎ、宮城県女川町内に「千年後のいのちを守るために」と建てられ続けている「いのちの石碑」の件を書きました。

最近の状況がどうなっているかと思い、調べてみたところ、まず、今月初めに地方紙『河北新報』さんに載った記事がヒットしました。 

<卒業式>津波で祖母犠牲「成長見守って」

 東日本大震災の教訓を未来に伝えるため、宮城県女川町003の津波到達点に「いのちの石碑」を仲間と建立してきた鈴木美亜さん(18)=宮城県石巻市=が1日、石巻西高(東松島市)を卒業した。客室乗務員(CA)の夢を抱き、7月から米国の大学に語学留学する。津波で亡くなった祖母に「成長を見守っていてほしい」と祈り、新たな一歩を踏みだした。
 鈴木さんが生まれ育ったのは女川町尾浦地区。同じ集落にあった祖母トシミさん=当時(87)=の自宅は比較的高い場所にあり、チリ地震津波(1960年)でも被災しなかった。
 6年前のあの日、鈴木さんの父親が祖母を迎えに行ったが、祖母は「大丈夫だから」と自宅にとどまった。津波に見舞われ、戻らぬ人となった。
 強くて優しい、憧れの存在でもあった祖母との突然の別れに、鈴木さんは葬儀で涙が枯れるほど泣いた。
 「もう津波で命を落とす人を出したくない」
 2011年4月に入学した女川一中(現女川中)で、同じ思いを持つ同級生らと津波から命を守る活動を始めた。合言葉は「1000年後の命を守る」。
 町内の21の浜に石碑を建立する「いのちの石碑」プロジェクトや、被災体験や津波対策案などをまとめる「女川いのちの教科書」作りなどに携わった。
 CAは幼い頃からの夢。ボリビア人の母の帰郷で飛行機に乗ると、日本語が不得手な母にも優しく丁寧に対応する姿に憧れた。
 留学を決断したのは昨年12月。親や高校の先生には反対された。国内の大学で学ぶことも考えたが「CAになるために本場で語学を学びたい」という思いは捨てきれなかった。
 「なれるよ、みーちゃんなら」。以前、夢を語ったときに祖母が掛けてくれた言葉が頭をよぎった。
 約6年間、本音で語り合ってきた女川の仲間たちも後押ししてくれた。「もし挫折しても、女川のみんなが支えてくれると思う」
 青い海を漁船が行き交う尾浦の風景は、古里を遠く離れても心に深く刻まれている。米国で出会う新たな友人にも震災の経験を伝えていくつもりだ。1000年後の命を守るために。


あの日、小学6年生だった子供達も、高校を卒業する年令になりました。つらいこともたくさんあったとは思いますが、逆に、あの経験がその後の人生のプラスになっていくこともあると思います。


さらに今朝の『朝日新聞』さんの宮城版。

宮城)東京から現場に行き、被災者と心通わせる

 海を望む高台。向けられた録音機に、高校004生が訥々(とつとつ)と言葉を吹き込む。「あれから6年。震災を経験した人でも記憶が薄れている。どう伝えていくか。自分たちが頑張る」
 2月4日、女川町。TOKYO FMの復興支援番組「LOVE&HOPE」を担当するフリーディレクター、黒川美沙子さん(43)らが震災6年特番の取材に訪れていた。「大きな地震が来たら、この上まで逃げて」と呼びかける「女川いのちの石碑」。建てている女川中学校の卒業生の思いは3月10日、電波に乗って関東へと届けられる。
 女川の訪問は30回をくだらない。彼らを取材するのは2度目。指導してきた教員の阿部一彦さん(50)は「1回だけ取材に来るマスコミは何百人といる。でも黒川さんは、今の自分たちの生の声を、ずっと聞いてくれている」。
 番組は月曜から金曜の午前6時半から10分間。被災者や復興を支援する人たちが出演し、全国のFM38局をつないであの日の体験、今の思いが語られる。放送は8日、1432回を数えた。
     ◇
 「被災地と全国をつなごう」と番組が始まったのは、2011年4月4日。「心と体のケア」をコンセプトに、当初は低体温症の予防や上手な栄養の取り方を、避難所に向け発信するなどしていた。
 転機は1週間後。初めて石巻に入った。不明者を捜す自衛隊の車が走り、がれきが折り重なり、電気も水道も不通のまま。広がる光景は想像を絶した。
 倉庫で支援物資の仕分けをしている中年の男女がいた。津波に襲われ、かろうじて立つ自宅の2階でそれぞれ暮らすという。でも「ゼロからでなく、一からのスタート。命があるんだから」と取材に明るく答え、「また来てね。次はバーベキューしようね」と笑顔までくれた。
 泣きたくてどうしようもないはずなのに、笑っている。家族のため、地域のため、前を向かざるを得ない。その強さ、かなしさ――。現場に行かなければすくい取れない、ありのままの被災地を伝えよう。番組のつくりは、大きく変わった。
     ◇
 スポンサーはつかない。コスト管理の厳しい民放。震災3年を過ぎると、予算が4割ほど削られた。それでもスタッフは朝5時半に集合し、片道5時間。車を駆って月に1度は東北に行く。
 何度も出演してもらった福島県沿岸部の40代の男性。両親と子ども2人が犠牲になった。父と長男が見つからず、今も行方を捜す。震災5年の昨年、取材に訪れたパーソナリティーに「5年も経ったのに、いつまでやるんですか」と、あえて聞いてもらった。男性は声を荒らげ、でも涙ながらに「やめるつもりはない」と言い切った。
 震災から10年後、同じ質問をしたら何を語るのだろうか。心を通わせ、追っていきたい。
 仮設住宅を出て復興した、という人もいれば、家族を失った悲しみから立ち直っていない、という人もいる。被災者一人ひとりにある物語。そして、あのとき起きたこと。話を聞けば、伝え続けなければいけないという思いがわき上がる。「だから、番組は終われないですよね」(桑原紀彦)


記事にあるTOKYO FMさんの番組、明日には特番として拡大枠でオンエアされます。 

特別番組 『LOVE&HOPE Special忘れない、伝えたい 僕たちがつくるいのちの教科書』

放送日時: 3月10日(金)16:00~16:55
放送局: TOKYO FM
出演者: 高橋万里恵  片田敏孝教授(群馬大学大学院教授・広域首都圏防災センター長)

1000年後の子どもたちの為に。 女川005の高校生による命のバトンを未来に繋ぐ活動に密着 LOVE & HOPE Special 『忘れない、伝えたい 僕たちがつくるいのちの教科書』

TOKYO FMでは人と人とのこころのつながりを大切にし、問いかける「HUMAN CONSCIOUS~生命を愛し、つながる心」をステーション理念として掲げており、毎年3月11日に、6年前に発生した東日本大震災を風化させないために、特別番組を放送しています。
震災6年目となる今年は、3月11日の前日である10日(金)16:00~16:55に『LOVE&HOPE Special忘れない、伝えたい 僕たちがつくるいのちの教科書』を放送致します。
パーソナリティは、「釜石の奇跡」を生み出した防災研究の第一人者、群馬大学大学院の片田敏孝教授と、朝のワイド番組『クロノス』パーソナリティの高橋万里恵。東北の若い世代が伝え、残そうとしている「震災の記憶と記録」を紹介します。

◇1000年後の子どもたちのために…「女川 いのちの教科書」の取り組みとは?

東日本大震災から6年。震災の記憶が薄れゆく中、番組が密着したのは、宮城県女川出身の高校3年生による「1000年後のいのちを守るプロジェクト」です。震災当時小学校6年生だった彼らがまず手掛けたのが「いのちの石碑プロジェクト」。「ここより上に逃げてください!」という文字を刻んだ石碑を町内の津波到達地点に建立しました。困難だったのは土地の取得。「子供たちの1000年先を見据える活動に、一人、また一人と、自分の土地を提供する町民が現れた。」そう語るのは、子どもたちの指導にあたった阿部一彦先生(震災当時女川第一中学校教員)です。
そして、石碑の次に彼らが取り掛かったのが、「いのちの教科書」の作成です。「子どもが教科書で数学を学ぶように、女川のこと、地震や津波のことを学ぶ教科書を作りたかった。」この3年間で100回を超えるミーティングを重ね、試行錯誤の末、「女川 いのちの教科書(中学生版)はいままさに、完成のときを迎えています。
震災当時小学生だった彼らがこの6年間どんな思いでプロジェクトに関わってきたのか。大切な人を亡くしたもの。喪失感に悩んだもの。生きていることが苦しくなったと語るメンバーもいます。プロジェクトに関わる想いは違えども、願いはひとつ。「一人でも多くの命ではなく、一人の命も失わないように、この震災の記憶と記録を1000年後まで語り継ぎたい」そして旅立ちの季節。この春高校を卒業し、それぞれの夢に向かって飛び立つ彼らが選び取った進路と未来の夢とは?一人ひとりの選択と決意はそのまま被災地の希望の灯です。


関東地方の皆様、それから地域局で提携があって放送を聴ける皆さん、ぜひお聴き下さい。


【折々のことば・光太郎】

又新しいラツシユ・アワアに騒然たる人間の急迫の力を思ひ むしろ猛然として、 この元気溢れるスケルツオに短音の銅鼓(テムパニ)を打ち込むのである。 「さあ、やるぞ」

詩「月曜日のスケルツオ」より 
大正14年(1925) 光太郎43歳

「スケルツオ」は現代仮名遣いだと「スケルツォ」。音楽用語で「諧謔曲」と訳し、基本的に速い3拍子、ゆったりした部分との差異を対比させ、激しい感情を表したりします。

この詩の前半は、光太郎が彫刻のモデルに雇った少女のおしゃべりを引用しています。そのとめどない、他愛ない、おそらく早口でまくしたてるおしゃべりを、スケルツォと比喩しています。「やかましいから黙っていろ」という意味合いではなく、むしろ少女の生命感溢れるおしゃべりを心地よくとらえ、そこにかぶせる自らの「さあ、やるぞ」の一言を、ティンパニーの一打に例えてもいます。

「さあ、やるぞ」。いい言葉ですね。震災からの復興もそうですが、それぞれの置かれた場所で、前向きに、決然と、そして人の道を踏み外すことなく、「さあ、やるぞ」の声に満ちる世の中であってほしいものです。