昨日は、東京多摩地区を歩いておりました。まずは町田、そして小平。町田と小平では、あまり近くはないのですが、千葉の自宅兼事務所から見れば方角的には同じということで。

町田での目的地は、町田駅近くの町田市民文学館ことばらんどさん。こちらで開催中の展示「野田宇太郎、散歩の愉しみ-「パンの会」から文学散歩まで-」を拝見して参りました。

イメージ 1 イメージ 2

イメージ 3 イメージ 4

イメージ 5

野田宇太郎は福岡県小郡市出身。主に戦前は詩人として、戦後は編集者、文芸評論家として活躍しました。戦後の活動は大まかにいうと二本柱でした。

一つは「文学散歩」の提唱。今ではあたりまえのようになった「文学散歩」という語や概念は、野田の提唱によるものが大きいようです。背景には、太平洋戦争で焦土と化した東京を見て、失われゆく「トポス」の記憶の記録、という意味合いがあったようです。昭和26年(1951)から、『日本読書新聞』に「新東京文学散歩」の連載が始まり、GHQによる規制で自由に写真撮影が出来なかった頃には、石版画家の織田一麿に挿絵を依頼、のちには野田自身の写真により、その対象は全国に及びました。

イメージ 6 イメージ 7

左が単行本化された『新東京文学散歩』、右は野田愛用の「文学散歩」用品です。

そうした活動は文学碑建立などにも向けられ、師と仰いだ木下杢太郎の碑を静岡伊東に建てる際に奔走しています。野田はこの杢太郎碑や、博物館明治村の開設などで、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を含む公園一帯の設計を手がけた建築家・谷口吉郎とも深く関わりました。

イメージ 8

以前にも書きましたが、野田が主宰した雑誌『文学散歩』の昭和36年(1961)10月号で、「特集 十和田湖」を組み、草野心平や谷口吉郎らの寄稿を仰いで光太郎最後の大作「乙女の像」を紹介しています。

イメージ 9 イメージ 10

余談になりますが、この中で、谷口は「乙女の像」の台座に使われた石材を「福島産の黒ミカゲ」と記しています。谷口は他に昭和34年(1959)・筑摩書房発行、草野心平編集の『高村光太郎と智恵子』に収められた「十和田記念像由来」では、「石材は福島県産の折壁石で、表面はつやつやと鏡のように磨いてある。」との記述も。しかし、「折壁石」は岩手県東磐井郡室根村(現・一関市)の折壁地区で採れたことに由来するブランドで、どうもどこかで勘違いがあったようです。

追記:ちゃんと「岩手産のミカゲ石」と書かれた制作当時の新聞記事を見付けました。
001
除幕直前、昭和28年(1953)11月15日の『毎日新聞』です。

閑話休題。野田と谷口の深い縁というのは、当方、存じませんで、「そうだったのか」という感じです。実際にこういう展示を見ると、いろいろ発見があるものです。


野田の活動のもう一つの柱は、「パンの会」の研究。「パンの会」は明治末、野田が師と仰いだ木下杢太郎や光太郎などが中心になって持たれた芸術運動です。光太郎の滞欧中から開かれ、帰国後の光太郎はすぐその波に飲み込まれ、後には発起人にも名を連ねました。文芸誌『スバル』、美術誌『方寸』に寄った若い芸術家の集まりを中心としましたが、演劇界からの参加も目立ちました。

野田はまず、昭和24年(1949)に六興出版社から『パンの会』を上梓、さらに同26年(1951)には増補版として『日本耽美派の誕生』を河出書房から出版しています。そこにも「文学散歩」同様、失われゆく記憶の記録という側面がありました。

そこで今回の展示では、「パンの会」関連も充実していました。光太郎から野田に宛てた、『パンの会』受贈の礼状も展示されていました。

イメージ 11

こちらは野田の故郷・福岡小郡の野田宇太郎文学資料館さんの所蔵。その存在を数年前に突き止め、文面などは同館にご教示いただいたのですが、現物を見るのは初めてでした。昨日は、もしかするとこれも並んでいるのではないか、と思って見に行ったというのが大きいのですが、ビンゴでした。

その他、ヒユウザン会(のちフユウザン会)で光太郎と親しく交わった木村荘八が描いた油絵「パンの会」。

イメージ 12

こちらは以前に東京ステーションギャラリーさんで開催された「生誕120年 木村荘八展」でも拝見しましたが、今回はこの絵に関する木村のメモ(複製)も展示されており、光太郎を含め、描かれた人物一人一人が特定でき、興味深く拝見しました。

イメージ 13 イメージ 14

会場出口近くでは、昭和40年頃に撮影されたと思われる野田と女優の故・小林千登勢さんとのトークが上映されていました。題して「千登勢の文学散歩 奥の細道」。テレビ番組だったのか、モノクロの映像で、スタジオでのトークと、深川、白河、平泉などの映像にのせての野田の解説が収められていました。

ちなみに帰ってから調べましたところ、光太郎智恵子にも触れた「犬吠岬」篇も制作されており、新潟県立生涯学習推進センターさんに収蔵されているようです。そちらも見たかったと思いました。

帰りがけ、図録を購入。

イメージ 15

A4判並製で30ページ。分厚いものではありませんが、よくまとまっています。これで300円は超お買い得でした(笑)。

不謹慎だなとは思いながら、笑ってしまったのが、昭和59年(1984)に亡くなった野田の年譜の最後。戒名が「文学院散歩居士」だそうで。いかにも、ですね。

同展、20日(月・祝)までの開催です。ぜひ足をお運びください。


その後、次なる目的地、小平に向かいました。明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

この猛獣を馴らして もとの楽園にかへすのが、 そら恐ろしい おれの大願。
詩「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

このあとに続く、社会矛盾への怒りを露わにする「猛獣篇」時代のプレリュード、約30篇の短章から成る「とげとげなエピグラム」の最後です。