出版社コールサック社さんから、詩誌『コールサック』の最新号が届きました。毎号送って下さっています。恐縮です。

光太郎と交流のあった山梨出身の詩人・野澤一のご子息で、連翹忌ご常連の野澤俊之氏が、父君に関するエッセイを寄せられていました。題して「神秘の湖〝四尾連湖〟に寄せる思い」。

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「四尾連湖」は山梨県西八代郡市川三郷町にある小さな湖で、野澤一が昭和のはじめに約6年間、湖畔の丸太小屋で独居自炊の生活を送った場所です。

野澤一についてはこちら。



その丸太小屋のすぐ近くに「水明荘」という宿泊施設があり、そこの若女将さんが平成2年(1990)に書き、山梨県のふるさと作文コンクールで特別賞を受賞した作文が引用されています。四尾連湖判に野澤の詩碑が建立された頃の作です。光太郎についてもふれて下さっています。

当方、山梨県にも4年近く住んでいたことがありましたが、四尾連湖には行ったことがありません。直線距離で6㎞ほど離れた富士川町の高下地区には、光太郎の文学碑があります。昭和17年(1942)に、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会の事業で、黙々とわが子を育み、戦場に送る無名の母を顕彰する「日本の母」顕彰事業のため、同地の井上くまの元を光太郎が訪れたことを記念して立てられました。建立は昭和62年(1987)。

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光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」の句が刻まれています。漢字仮名交じりにすれば「美しきもの満つ」、「この世は美しいもので満ちているよ」といった意味です。

ちなみに、少し前に光太郎の変体仮名使用についてちらっと書きましたが、これもそうで、片仮名の「ミ」を平仮名に混ぜて使うことが多くありました。日記でも「手紙」を「てかミ」と表記することがしばしばでした。

ところが、そうした事情に疎い方々の間で、この碑文を「うつくしきもの三つ」と読み(さる高名なゲージツ家のセンセイも、そのように誤読しています)、「三つ」はこの地にある富士山、特産の××……などという誤解が生じ、そのように紹介されているサイトも存在します。ある意味「都市伝説」のような、こうした誤解が広まってしまうのは仕方がないことなのかも知れませんが……。

他にも光太郎にまつわる「都市伝説」の類は少なくありません。「××神社の狛犬は光太郎の作である」、「××県の料亭の座卓には光太郎が包丁で彫った文字が残っている」など。実は後者の方は、ろくに確かめもせず、20年ほど前に当方も著書で紹介してしまったことがありますが、ガセネタです。

閑話休題。ほぼ毎年、4月22日に信州安曇野碌山美術館さんで開催される碌山忌にお邪魔していますが、その際には近隣、あるいは途中にある光太郎ゆかりの地、光太郎と交流のあった人々の記念館的なところに立ち寄ることにしています。四尾連湖もいずれその際に、と思っております。

富士川町の光太郎碑も含め、皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

彫刻はおれの錬金術、 出ないかも知れない金を求めて、 この禁苑の洞窟(ほらあな)に烈火をたく。 あんまりそばへ寄るな。

詩「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

「無」から「有」を生み出し、しかも単なる「有」でなく、「美」にまで昇華させる彫刻。たしかに「錬金術」にも似た部分があるかもしれませんね。