新刊情報です。久々にものすごく読みごたえのある書籍でした。
職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容
2017年2月10日 土田昇著 みすず書房 定価3,700円+税刀工名家に生まれ、廃刀令後の明治に大工道具鍛冶として修行し、道具を実際に使う大工たちの絶賛によってゆるぎない地位を得た千代鶴是秀(1874-1957)。
修業時代に師から使用者重視という製作思想の根幹を心に刻みつけられた是秀の、機能美の極致のような作品の中で、唯一ほかと異なるたたずまいをもつのが一群のデザイン切出小刀である。自由で流麗な意匠をまとったこれら切出群は、実用面からいえば使いにくく、道具が道具でなくなるギリギリの地点に位置する。抜群の切味を隠し持ちながら、使用されることを想定しない非実用の美。道具鍛冶として名声を得ながら、是秀はなぜ実用を犠牲にした美しいデザイン切出を作ったのか。
著者は祖父、父と三代にわたる大工道具店を営む中で、長年、千代鶴是秀の作品に向き合ってきた。是秀からじかに教えをうけた父、土田一郎から伝えられた貴重な話や資料を手がかりに、朝倉文夫らとの交わりをはじめ、是秀の周囲の芸術家や文化人、職人たちの跡をたんねんにたどり、その作風変化の謎を時代という大きな背景の中でひとつひとつときほぐしてゆく。鑿や鉋、切出と深く対話するように。鍛冶文化の豊かさを伝えながら。
修業時代に師から使用者重視という製作思想の根幹を心に刻みつけられた是秀の、機能美の極致のような作品の中で、唯一ほかと異なるたたずまいをもつのが一群のデザイン切出小刀である。自由で流麗な意匠をまとったこれら切出群は、実用面からいえば使いにくく、道具が道具でなくなるギリギリの地点に位置する。抜群の切味を隠し持ちながら、使用されることを想定しない非実用の美。道具鍛冶として名声を得ながら、是秀はなぜ実用を犠牲にした美しいデザイン切出を作ったのか。
著者は祖父、父と三代にわたる大工道具店を営む中で、長年、千代鶴是秀の作品に向き合ってきた。是秀からじかに教えをうけた父、土田一郎から伝えられた貴重な話や資料を手がかりに、朝倉文夫らとの交わりをはじめ、是秀の周囲の芸術家や文化人、職人たちの跡をたんねんにたどり、その作風変化の謎を時代という大きな背景の中でひとつひとつときほぐしてゆく。鑿や鉋、切出と深く対話するように。鍛冶文化の豊かさを伝えながら。
明治から昭和にかけて活躍し、名人と謳われた大工道具鍛冶の千代鶴是秀(ちよづる・これひで)の評伝です。
色々な意味で、すさまじい職人と言わざるを得ません。師匠の石堂寿永ともども、砂鉄から作る日本古来の玉鋼(たまはがね)に見切りを付け、輸入物の洋鋼(ようはがね)での制作を選択します。明治も後期となると入手できる玉鋼の品質にばらつきが生じたためです。使う人の立場に立ってその品質を追求するなら、あっさりと伝統を打ち破るという革新性には感服しました。
一方で、機能性を犠牲にし、デザイン性を重視した非実用的な切り出し小刀なども制作しています。それでいてその製法は古来の方式ににのっとった、手間暇のかかる方法であるという矛盾。通常の刃物は、使うたびに研がれ、摩滅していく、いわば消耗品です。しかし、非実用的な刃物であれば、使われることがないので研ぐ必要もなく、そのフォルムを保ち続けます。著者の土田氏曰く「道具というものの消えてなくなる哀れな運命をもしかすると身にまとわずにすむかもしれないものとして提示した可能性はとても高い」。哲学的とさえ思われます。
その他、古来の名工の技術を徹底的に調べ上げて取り入れたり改良したり、制作に際しては動力を伴う機械類を一切使用しなかったり、戦時中には粗製濫造で済まされる軍刀の制作に手を染めなかったり、本当に色々な意味で、すさまじい職人と言わざるを得ません。
詳細が不明なのですが、光太郎は是秀の作った鑿(のみ)ないしは彫刻刀を使っていたと思われます。
『高村光太郎全集』には、是秀の名が四ヶ所に現れます。
うち三ヶ所は、光太郎から是秀に宛てた書簡です。いずれも昭和20年(1945)、東京を焼け出され、岩手花巻の宮沢賢治実家、旧制花巻中学校の元校長・佐藤昌宅に身を寄せている際にしたためられました。
五月十五日附の貴翰岩手県花巻にて拝受しました、小生五月十五日東京発当地にまゐり居ります。当分此地に落ちつく気で居りますが其後肺炎にかかり昨今漸く恢復に向ひました次第、いづれ全快の上いろいろ申上げたく存じます。東京の空襲ますます烈しき由、目黒方面は如何でせうか、切に御安泰をいのります、おてがミ拝受のしるしまで、(6月9日)
この文面から、二人は旧知の仲だったことがうかがえます。ちなみに是秀は光太郎より9歳年長です。
拝復 毎々御見舞のおてがミ拝受忝く存じます、東北地方も今日では烈しい戦場となりましたが花巻町はいまのところ無事で居ります。小生目下彫刻用の雑道具をあつめたり、砥石を探したりして居ります。刃物類など中々入手に困難の状態です。 東京に居られて御無事なのは此上もない幸運と存じ上げます、ますます御健勝のほど祈上げます、(8月3日)
やはり刃物関係の話題が出ています。かつて是秀作の刃物を使っていたことが推測されます。そして、この一週間後に宮沢家は空襲で全焼、佐藤昌宅に一時的に移り、以下の書簡をしたためます。
八月十八日付の貴翰拝受 小生八月十日花巻町空襲の際又々戦火に見舞はれて罹災、目下さし当つての避難中にて、近く太田村といふ山間の地に丸太小屋を建てる予定でありますが、火事のため、折角少々集めた刃物其他を又焼失いたしました。 お言葉により鉋、鑿、手斧、まさかりなど、あらためてそのうちお願申上げたく存じ居りますが、とりあへず御返事まで 艸々(8月28日)
是秀から光太郎に、刃物類提供の申し出があったことがわかります。
ところが、結局それは実現しなかったと思われます。この翌月からの、光太郎が郵便物の授受を記録したノートに是秀の名が見えず、日記にも是秀から大工道具類を受け取ったという記述がありません。
これで是秀とのつながりは切れたのかと思いきや、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京し、故・中西利雄のアトリエを借りて住んでいた昭和28年(1953)の日記に、突如、是秀の名が出て来ます。
七月八日 水 くもり、雨、 鶴千代是秀翁くる、
光太郎、「千代鶴」を「鶴千代」と誤記していますが、これは間違いなく是秀でしょう。是秀がなぜ訪ねてきたのか、どんな話をしたのかなどは、一切記述がありません。ただ、是秀の娘婿の牛越誠夫が、粘土で作った塑像をブロンズに移す際の石膏型を作る石膏取り職人で、「乙女の像」の石膏取りを担当しており、その関係があったとは推定できます。
『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』には、牛越の娘(=是秀の孫)と光太郎が一緒に写った写真が牛越家に伝わっていたという記述がありました。ちなみに同書を読むまで、是秀と牛越が義理の親子だったとは存じませんでした。
さて、光太郎は是秀の作った鑿(のみ)ないしは彫刻刀を使っていたと思われる、と書きましたが、長くなりましたので、そのあたりの考察は明日書きたいと存じます。
【折々のことば・光太郎】
おう冬よ、 このやはらぎに満ちた おん身の退陣の荘重さよ。 おん身がかつて あんなに美美しく雪で飾つた桜の木の枝越しに、 あの神神しいうすみどりの天門を、 私は今飽きること無く見送るのである。
詩「冬の送別」より 大正11年(1922) 光太郎40歳
「春が来た」と言わずに「冬が往ってしまった」とするあたり、冬をこよなく愛した光太郎の本領発揮です。寒さに弱い当方には到底考えつきません(笑)。
「美美しく」は古語「美美(びび)し」=「美しい、はなやかである」の連用形。誤植ではありません(笑)。
日曜日の朝、当地はうっすらと雪が積もりました。「美美し」とは思いましたが、「冬はもういいよ」という感覚です。愛犬は大喜びで雪の上を転げ回っていました。気が知れません(笑)。