今月9日に亡くなった、元埼玉県東松山市教育長にして、生前の光太郎と交流のあった田口弘氏の追悼ページが、同市のホームページ上にアップされました。


全国的に見ても非常に異例のことだと思いますが、それだけに氏の功績や人徳の大きさが偲ばれます。多年にわたり教育長を務められた他、東武東上線高坂駅から伸びる「彫刻プロムナード」(光太郎胸像を含む高田博厚作品群が設置)の整備、同市を会場とした「日本スリーデーマーチ」開催・運営への尽力、そして昨年の光太郎関連資料の寄贈などなど……。

動画投稿サイトYouTube上には、昨夏撮影された氏へのインタビューがアップされ、上記のページにも貼り付けられています。こちらでも転用させていただきます。


光太郎の日記は、明治末のもの、昭和20年(1945)に花巻に疎開した後のものを除くと、戦前・戦時中のものは空襲で灰になってしまいました。したがって、その出会いの頃の日記は残っていません。戦後のものも、昭和24年(1949)、25年(1950)の大半は失われています。

花巻郊外太田村の山小屋で書かれ、残っている戦後の日記に氏の名が初めて出て来るのが、昭和22年(1947)8月23日。上の動画で3分33秒頃からのエピソードです。

午後少し横になる。田口弘氏来訪に起される。木村知常氏の教子。フイリツピン ジヤヷの話等。「ジヤヷ詩抄」肉筆、余に献してくれる。乳かんづめ、急須、湯呑等もらふ。林檎御馳走する。三時半辞去、西鉛を教へる。明日詩碑へ詣る由。

「詩碑」はおそらく花巻町の光太郎が碑文を揮毫した宮沢賢治詩碑と思われます。


それから翌年2月9日。

<田口弘さんより去年八月もらつた乳カンをあける>

おそらく練乳でしょう。


続いて昭和26年(1951)12月22日。

選集第三回分を尾崎喜八、宮崎稔氏、田口弘氏宛の小包をつくる、

さらに「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京した後の、同28年(1953)2月16日。

藤島氏に田口弘氏宛小包托、

「選集」は中央公論社から全六巻で刊行された『高村光太郎選集』。田口氏が作っていた光太郎のスクラップ帳も参考に草野心平が編集にあたりました。動画では9分45秒頃からその話が出ています。

その他、『高村光太郎全集』およびその補遺である当方編集の「光太郎遺珠」(雑誌『高村光太郎研究』連載)に、光太郎から田口氏宛の書簡が計10通。それら全て(小包の包装紙まで保存されていました)、昨年、東松山市に寄贈され、公開されています。

改めて氏の追悼展的に展示されることを期待します。


【折々のことば・光太郎】

敷居の前にぬぎすてた下駄が三足。 その中に赤い鼻緒の 買ひ立ての小さい豆下駄が一足 きちんと大事相に揃へてある。 それへ冬の朝日が暖かさうにあたつてゐる。
詩「下駄」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

止まった市電の窓から見えた煎餅屋の店先の様子です。そのものを描かなくとも、おかっぱ頭の小さな女の子の姿が目に浮かび、見事です。

短いフレーズを切り取ることが出来ず、このコーナーでは割愛しましたが、この時期、「小娘」「丸善工場の女工達」「米久の晩餐」など、市井に生きる無名の人々に対する暖かな眼差しが感じられる詩が多く作られました。