昨日、平塚らいてう及び『青鞜』について書きましたが、沖縄の地方紙『宮古毎日新聞』さんの一面コラムが、やはりらいてうに触れていました。

【行雲流水】(世界平和アピール)

 雑誌『青鞜』を創刊、「元始女性は太陽であった」と論説を載せ、女性の解放を主張した平塚らいてう、核兵器の廃絶を訴えた「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名して平和運動に尽力した湯川秀樹、それに平凡社の創業者の下中弥三郎らは1955年「世界平和アピール7人委員会」を結成した

▼結成当時は冷戦時代であったが、現在もなお、軍拡競争が行われ、世界は混沌として、混迷を続けている。委員は変わっても会は、平和と人権、民主主義と、日本国憲法擁護、核兵器廃絶などについて、おりに触れてアピールを発表、その数は2016年までに120本を超えた

▼当然のことながら「沖縄」も取り上げられている。2015年には「辺野古問題を直視し、沖縄の人たちと連帯を強めよう」というアピールがなされている。昨年の11月には、講演会「沖縄は日本なのか-(平和)を軸として考える-」が開催された

▼講演の中で大石芳野委員は、東村高江地区のヘリパッド建設に触れ、「沖縄戦の傷は今も残っている。戦争はまだ終わっていない」と訴えた

▼「異化する沖縄」と題して述べた高村薫委員は、国に対する負の住民感情を述べ、名実ともに、沖縄は日本だと言えるようにすべきだと語った。杉田敦教授は、沖縄の戦後史に触れたあと、「沖縄のことは関係ないと思うことが一番問題であり、本土のメディアの関心も薄いと指摘した

▼正常な沖縄を要求する県民の声は、世に正義がある限り、決して孤独ではない。


昨年暮れには『徳島新聞』さんが、光太郎詩「あどけない話」中の「ほんとの空」の語を引いて、やはり沖縄の現状に関する警句を一面コラムに書かれていました。

戦後、日本の平和と民主主義のために戦い続け、日本婦人団体連合会長として、国際婦人運動や国内の母親の援助などにとりくんだらいてうの精神を糧に、さらに頑張ってほしいものです。


続いて先週金曜日、『朝日新聞』さんの山梨版。俳優・柳生博さんの子息で、八ケ岳南麓にてレストラン&ギャラリー「八ケ岳倶楽部」を営まれている柳生宗助さんの連載コラムです。

柳生さんちの八ケ岳日記 野鳥観察も寒いほどお得に

 八ケ岳近辺では87店舗が参加する「寒いほどお得フェア」が28日まで実施中です。その日の気温が寒いほど対象商品の割引率が高くなるイベントで、午前10時の清里駅前の気温がマイナス5度以下だと50%引きにもなります。知恵を絞って、八ケ岳にとって閑散期となる冬をみんなで乗り切ろうという気概がそこにあるように思います。八ケ岳倶楽部では名物のフルーツティーを対象に、お客様に喜んでいただいています。


 ただ、八ケ岳倶楽部で寒いほどお得になるのはメニューだけではありません。寒いほど、訪れる野鳥の数も増えてくるのです。テラスや軒下などにひまわりの種を置くと、寒ければ寒いほど野鳥はやってきます。そんな野鳥を見ながらお茶を飲む時間を「バードウォッチングカフェ」と称しています。繁忙期にはない、ゆったりとした時間を味わえます。たくさんの種類が混然となってエサをつつきに来るので、その名前や特徴を覚えるだけでも飽きません。


 胴の部分がタテに黒く、まるでネクタイをしているように見えるのがシジュウカラです。似ているのですが「ネクタイ」をしていないのがコガラ。木の上から下へ歩行することができるほかに、まるで「トップガン」のように上から下へ一直線に飛ぶことができるゴジュウカラ。地面にはいつくばって、エサの台からこぼれたエサをついばむカワラヒワ。いかつくて、ちょっと人相が悪そうなシメ。力強い黄色いくちばしが特徴的なイカル……。


 こうやって覚えていくと、自然と愛着も湧いてきます。八ケ岳倶楽部にはスタッフが手作りで野鳥の「似顔絵」を描いたスケッチブックも置いてあります。これがまたスタッフそれぞれの個性が出ていて、実際の野鳥と見比べて楽しんでいます。


 見ていると、野鳥には愛嬌(あいきょう)があるものと、品があるものの2種類があるように思います。愛嬌がある代表格がヤマガラです。ちょんと首をかしげてこちらを見ているしぐさは、まるで小さい子供が新しいおもちゃを見ている時のような、純真無垢(むく)な可愛さがあります。一年中同じ場所に留まるからなのか、ひまわりの種を食べ過ぎて、ずんぐりむっくりして体が重そうなのも、ご愛嬌です。


 気品がある野鳥といえばウソです。数羽でそっとエサ場に訪れて、静かに種をつついています。品のある人が現れると、そこだけが空気が変わるように、ウソが来ると辺りはとても上品になります。詩人の高村光太郎は、ウソのことを「いかにも山の小鳥らしい、黒じみない、おっとりとしていて、中々精悍(せいかん)な、また紅梅の花にも負けない美麗さと風格とのある鳥」と描写しています。


 冬に野鳥は様々の種類が混ざり合って訪れます。混群と呼ばれます。冬はエサが少なく協力し合うためとか、外敵から守りあうためとか、単純に寂しいためとか理由については色々と説があるようです。


 僕は、雑木林と同じように種類が多種多様な方が、生態系にとっても良いからなのではないかと思います。松林や杉林よりも雑木林のほうが幹も太くなり、下に野草が生えるように、混群の方がそれぞれの種の継続にとって都合が良い理由が何かあるのではないでしょうか。八ケ岳倶楽部で窓の外を眺めていると、野鳥たちや雑木林が多様性の大切さを教えてくれているように感じます。

引用されている光太郎の言葉は、昭和11年(1936)の雑誌『野鳥』に載ったエッセイ「木彫ウソを作つた時」から。木彫の「うそ鳥」はの画像。大正14年(1925)の作です。写真は光太郎令甥・髙村規氏です。
000



ウソはスズメより少し大きく、全国に広く分布している鳥だそうですが、当方、野鳥には詳しくなく、しっかりウソを見た、といえる経験がありません。少し注意して探してみます。


最後に『東京新聞』さん。こちらも昨日の紙面から。

「多摩・武蔵野検定」 立川市教委、小5ふるさと学習に活用

 タマケンこと「多摩・武蔵野検定」をふるさとの学習に生かそうと、立川市教育委員会は新年度から毎年、すべての小学5年生に受検させる。2019年度以降は中学1年時にもう一度挑戦する態勢をつくり、知識の定着を図る。 (加藤健太)
 タマケンは〇八年にスタートしたご当地検定で、多摩地域の大学や自治体、企業などでつくる「学術・文化・産業ネットワーク多摩」(日野市)が主催。年に一度試験があり、延べ約五千五百人が受検している。
 立川市では、ふるさとを学ぶ授業で、ウド農家や屋外アート群「ファーレ立川」などを見学してきた。児童が楽しみながら学べる内容を考えていたところ、タマケンを知り、協力を打診。同ネットワークも「地元に貢献したいと思える子が育ってほしい」と快諾し、児童一人当たり千八十円の検定料を無料にすることにした。
 市教委によると、約千四百人の新五年生が受検するジュニア級は、社会科の副読本が出題範囲になっており、ふるさと学習の時間に勉強して試験に備える。児童には市独自の「検定証」を贈る計画をしている。
 ジュニア級には多摩地域三十市町村ごとの検定が用意されていて、「自然・地理」「歴史」「産業・文化」の分野から出題される二十五問を、二〜三者択一で答える。
 市教委指導課の小瀬和彦課長は「住んでいる町を子どもたちが好きになり、堂々と魅力を発信できるようになれば」と話した。
       ◇
 2016年度の多摩・武蔵野検定は3月11日、日野市の明星大学である。今月8日まで受検者を募集している。難易度別にマスター4〜1級とジュニア級がある。検定料は級ごとに異なり、1080〜5400円。問い合わせは学術・文化・産業ネットワーク多摩=電042(591)8540=へ。
◆ジュニア級立川市検定の例題 
【問】立川市の花と木は何でしょう。
  (1)ウメ・イチョウ (2)サツキ・ケヤキ (3)コブシ・ケヤキ
【問】立川市にただ一つある国宝はどれでしょう。
  (1)立日橋 (2)川越緑地古民家 (3)六面石幢(せきとう)
【問】明治時代に立川駅北口で子どもを見送る様子を歌った歌碑は誰の作品でしょう。
  (1)若山牧水 (2)高村光太郎 (3)中村草田男
 ※答えは(3)、(3)、(1)

光太郎の名はブラフで使われているだけです(笑)。

しかし、なぜあえて光太郎を選択肢に入れているのか、というと、おそらく、やはり立川市内に光太郎詩碑が建っているからでしょう。

以前もご紹介しましたが、刻まれている詩は「葱」(大正14年=1925)。碑が建っているのは現在も続く東京都農事試験場の一角で、日本女子大学校時代からの智恵子の友人だった新潟出身の佐藤スミ(旧姓・旗野)がここの場長夫人でした。スミの名は「智恵子抄」に収められた散文「智恵子の半生」にも現れます。

007
   葱
立川の友達から届いた葱は、
長さ二尺の白根を横(よこた)へて
ぐっすりアトリエに寝こんでゐる。
三多摩平野をかけめぐる
風の申し子、冬の精鋭。
俵を敷いた大胆不敵な葱を見ると、
ちきしやう、
造形なんて影がうすいぞ、
友がくれた一束の葱に
俺が感謝するのはその抽象無視だ。

こういった件も、地元で語り継がれて欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

日常の瑣事にいのちあれ 生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ われらのすべてに溢れこぼるるものあれ  われらつねにみちよ

詩「晩餐」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

『智恵子抄』にも収められている、比較的有名な詩です。前半に、智恵子との「晩餐」のメニュー(というか食材)が列記されています。

暴風(しけ)をくらつた土砂ぶりの中を ぬれ鼠になつて 買つた米が一升 二十四銭五厘だ くさやの干(ひ)ものを五枚 沢庵を一本 生姜の赤漬 玉子は鳥屋(とや)から 海苔は鋼鉄をうちのべたやうな奴 薩摩あげ かつをの塩辛

後半は夜の営みに関する内容。4月の作で、結婚披露は12月、すでに同棲、事実婚の状態にあったことが隠されていません。智恵子との日常、それこそが何物にも代え難いものであったと宣言されています。「くさやの干物」やらを詩的情調の中で昇華せしめた例は、おそらくこの時代に(または現在に至るまで)他にはなかったのではないでしょうか。

引用部分の後半、「われらのすべてに溢れこぼるるものあれ  われらつねにみちよ」は、草野心平の揮毫により、神戸市の神戸文化ホール前に詩碑として遺されています。また、ホールの外壁には、智恵子の紙絵「あじさい」によるタイル貼りのアートも。

イメージ 3  イメージ 4