1/29(日)の、『しんぶん赤旗』さん日曜版に、以下の記事が出ました。

つい先日も『週刊朝日』さんのインタビューをご紹介した、当会会友渡辺えりさんがらみです。

この人に聞きたい 生き残った人たちの負い目 父の思い抱き戦争を描く 劇作家・演出家・俳優 渡辺えりさん

 〈父・正治さんの戦争体験を基に書いたのが、「光る時間(とき)」(1997年)です〉
 私が30歳くらいの時、実家で酔った父が、自分の戦争体験を語り始めました。自分は14歳から4年半、東京の中島飛行機武蔵野製作所で、旋盤工としてゼロ戦の部品を作っていたと。驚きました。
 5万人が働いていたという広大な工場は、44年冬から終戦までに空襲を9回受け、200人以上が亡くなったそうです。
 ある日、大空襲があるという情報がもたらされ、全員に避難命令が出ました。でも番をする者が何人か要る。「10人兄弟の末っ子が残るべきだ」「成績の悪い人間を残せ」。醜い争いに耐えかねて、18歳の父は「自分が残ります」と申し出ました。仲間2人が続きました。
 少年3人で空襲を待つ夜は、内蔵が口から飛び出そうなほど怖かったそうです。父は、特攻隊員が胸に縫い付けて飛んだという高村光太郎の「必死の時」を唱えて耐えました。空襲がそれて、父は助かりました。
 話を聞き、私が生まれたのは奇跡だったんだと考えました。そして、私の代わりに死んだ人のためにも、戦争を書く責任があると思いました。

(略)

 父は戦後、山形へ帰り、苦学して小学校の教師になりました。父はよくいっていました。「あの時、人を狂わせ、僕を軍国少年にした教育とは何か。その謎を解きたいんだ」と。
 父が心酔した高村光太郎も戦争が終わってから7年間、岩手の山にこもり、自分の戦争責任を問いました。そんな高村をモデルに「月にぬれた手」(11年)を書きました。
 私は「二度と戦争をしない」と宣言した憲法は、人びとが痛苦の歴史の上に勝ち取ったものだと思います。この憲法を守り、生かすのは私たちの務めです。戦争放棄はいいことだと、いつか世界が見習う日が来ると信じています。

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いろいろな場面で語られている、お父様と光太郎のエピソードの一部が紹介されています。

このあと命を拾ったお父様は、駒込林町の光太郎アトリエを訪れ、光太郎に会われています。やはり空襲で、アトリエが焼け落ちる直前でした。また、戦後、光太郎が山形に講演に行った際(昭和25年=1950)に再会されたそうです。

直接戦争を体験された世代の高齢化がどんどん進む中、第2世代の人々が、それを伝え聞き、次世代へと伝えていくことは大切なことです。二度と同じ過ちを繰り返さないためにも。

渡辺さんには、今後も語り部としてご活躍されることを祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

感激の枝葉を刈れ 感動の根をおさへろ

詩「現実」 大正2年(1913) 光太郎31歳

たった2行の短い詩です。おそらく智恵子との恋愛による高揚感の中、自制を働かせようとする意図を謳っているのでは、と思われます。

戦争も同じですね。集団的な狂躁に巻き込まれ、一人一人が自制心を失い、旗を振る悪辣な者の大言壮語や甘言に乗せられて、気がつけば後戻りできない地点……今の日本がそうなりつつある気がします。