先週土曜の『日本経済新聞』さんの夕刊。「文学周遊」という連載で、光太郎が扱われました。
文学周遊 高村光太郎「典型」 岩手・花巻市 小屋にゐるのは一つの典型、一つの愚劣の典型だ。
東京生まれ東京育ちの高村光太郎が、岩手県花巻の西郊、稗貫(ひえぬき)郡太田村山口(現花巻市太田)の山小屋で、農耕自炊の生活を始めるのは、1945年の晩秋のことだった。
その年の春の空襲で、光太郎は東京の自宅とアトリエを焼かれ、5月、宮沢賢治の弟、宮沢清六の招きで、花巻の宮沢家に疎開していた。亡くなった賢治の顕彰に光太郎が尽くしたことが縁である。
地元の有志の協力で鉱山の小屋を移築した住居が、今も大切に保存されている。JR花巻駅から西へ車で20分余り、高村山荘は一面の雪原の中にあった。一昨年春、新装オープンした高村光太郎記念館から雪道を歩いて約100メートル、保存のための2重の上屋の中にある小屋は、古びた材木で組まれた粗末な作りで、3畳半ほどの板間と囲炉裏、土間でなる。屋根裏があらわな小屋には、隙間から雪が吹き込んできたという。都会人の光太郎は、なぜ独居自炊の生活を、ここで62歳から7年間も続けたのだろう。
「光太郎は戦争責任を痛切に感じ、あえて不自由な生活を自らに課しました」と花巻高村光太郎記念会の高橋卓也氏は話す。「戦に徹す」「敵ゆるすべからず」……。戦争遂行を鼓舞する数々の詩を書いた光太郎は戦後、深く悔い、戦争協力と終戦に至った半生を告白的につづる連作「暗愚小伝」をこの小屋で執筆。それを含む詩集「典型」でも、自らの愚かさを厳しく凝視した。引用した詩「典型」の一節は、そんな自罰の意識の表れである。
同時にこの寒冷な山間の地に深くひかれ、ここで日本の再生に尽くそうという思いも募っていった。近くの太田村立太田小学校山口分教場(後に山口小学校)へたびたび足を運び、子供の成長を見つめた。山口小学校に通った浅沼隆さん(75)は、学芸会でサンタクロースの姿に扮(ふん)した光太郎の姿を今も覚えている。「村落社会に根をおろして/世界と村落とをやがて結びつける気だ。」(「山林」)という夢が、光太郎にはあった。
山口小学校は、過疎化で近くの太田小学校に統合され、今はない。しかし17年前、跡地に市のスポーツ施設ができたころから、付近はスポーツの拠点となり、記念館の周囲にクロスカントリースキーのコースもできた。亡き妻、智恵子をしのび、光太郎が歩いた雪道に、練習に励む小学生の声が響きわたっている。
(編集委員 宮川匡司)
たかむら・こうたろう(1883~1956) 東京生まれ。詩人・彫刻家。父は木彫家、高村光雲。東京美術学校彫刻科卒。06年渡米。翌年欧州に渡り09年帰国。以後、美術評論、翻訳、短歌、詩を次々と発表。14年、第1詩集「道程」を自費出版、年末、新進の画家、長沼智恵子と結婚。彫刻制作のかたわら、翻訳で生活を支える。38年、精神と肺を病んだ智恵子が病院で死去。41年詩集「智恵子抄」を刊行。45年5月、岩手県の花巻に疎開。52年に帰京。
50年刊行の詩集「典型」は、戦争協力の詩を書いた過去を厳しく省みる「暗愚小伝」と山村の生活を見つめる詩を収める。
(作品の引用はハルキ文庫「高村光太郎詩集」、写真は花巻高村光太郎記念会提供)
旧太田村(現・花巻市太田)の、光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)を「周遊」しつつ、ここで生まれた生前最後(選詩集等を除く)の単行詩集『典型』(昭和25年=1950)を紹介して下さいました。
光太郎の詩集というと、第一詩集『道程』(大正3年=1914)や、ベストセラー『智恵子抄』(昭和16年=1941)に注目が集まりがちですが、「到達した境地」ということを考えると、『典型』こそがその総決算であるといえます。
青年期のような情熱的な詩風は影を潜めて、むしろ「枯淡」の境地に達していますが、それでも内に秘めたエネルギーの発露はそこここに見え、まさに「百尺竿頭に一歩を進む」といった感があります。クリエイティブな人間は、死ぬまでそうなのだと改めて感じ入らせます。
そして、その生涯で多くのつまづきを体験し、そのたびにそこから立ち上がってきた光太郎だからこそ、この境地に到達できたのだと思われます。
この時期の詩作品、もっと見直されてほしいものです。
【折々のことば・光太郎】
牛はのろのろと歩く 牛は大地をふみしめて歩く
詩「牛」より 大正2年(1913) 光太郎31歳
詩「牛」は115行にもわたる長大な詩です。自らを生み出した「自然」を信じ、のろのろと、不器用に、しかし必然の声に導かれて為すべきことを為しとげる牛に、自らの姿を仮託しています。
右はその全文を昭和14年(1939)に揮毫したもの。詩を作ってから四半世紀以上を経て全文を揮毫したあたり、この詩が光太郎にとって自らの座右の銘的な意味合いを持っていたことが推定されます。
そしておそらく『典型』に到った晩年にも、同じようなことを考えていたのでは、と思われます。ある意味、「三つ子の魂百まで」だったと言えるのではないでしょうか。