昨日は、当会顧問・北川太一先生を囲む新年会で、都内に出かけておりました。
主催は北川先生が都立向丘高の教諭をなさっていた頃の教え子の皆さんである北斗会さん。北川先生とお会いするのは一ヶ月ぶりでしたが、連翹忌や女川光太郎祭にご参加なさっている方を除く、北斗会の皆さんの大半とは、一年ぶりでした。
会場は毎年、東大正門前のフォーレスト本郷さん。昨日から大学入試センター試験で、東大さんでも試験が行われていました。
毎年この席上で、北川先生からの年賀状を戴いています。
曰く「鶏よ くらき夜をまもり あかるき曙をよべ」。戦前に逆戻りしたようなこのところの世相を背景に、参会者のお子さんやお孫さん達の世が明るい未来でありますように、との意だそうです。士官として軍隊生活を経験なさっている先生ならではの重いお言葉でした。
さて、毎年、この会に行く前に、必ず同じ方面で光太郎や光雲ゆかりの場所や、関わりのあった人物の記念館などに寄ることにしています。
今年は、本駒込駅近くの金龍山大圓寺さんというお寺に寄りました。
こちらは光雲ゆかりの寺院です。
光雲晩年の昭和4年(1929)から同8年(1933)にかけ、光雲と、その高弟の山本瑞雲・三木宗策の手になる七体の観音像が寄進されました。いずれも一丈を超える大作だったそうです。
左上から右下の順で、聖、如意輪、不空羂索、十一面、馬頭、準提、千手の各観音像です。
ところが、太平洋戦争の空襲で、全て灰燼に帰したとのこと。残念です。
ただ、最初に手がけられた聖観音のみ、鋳銅の像も作られており、そちらは現在も大圓寺さんの境内に露座で鎮座ましましています。
現在は、戦後、光雲の系譜に連なる仏師たちによって復刻された七観音が収められましたが、それぞれ元の像より小さいサイズだそうです。現ご住職の奥様とおぼしき方が、堂内をご案内下さいました。
海軍中将だった小笠原長生、同じく海軍の元帥・東郷平八郎らも、光雲同様、大圓寺さんとゆかりが深く、光雲を交えての座談会などがこちらで開かれたこともあり、当時の写真や東郷の書などが飾られていました。
焼失した七観音以外に、光雲が彫った像が現存しているのですが、そちらは普段は厳重に保管しているとのことで、残念ながら拝観は叶いませんでした。
かわりに、大圓寺さんのパンフレットを戴いて帰りました。そちらには現存の像の写真が載っています。
下の画像は慈母観音像。
台座にあたる部分は、日清戦争時に東郷元帥、小笠原中将が乗艦していた巡洋艦・浪速の外壁の鉄板だそうです。観音像が立っている部分は、砲弾が貫通した穴。小笠原の居室だった分隊長室の壁だそうで、小笠原が母から守り本尊として渡された観音像は爆風で真っ二つになったとのこと。それが身代わりになってくれたと信じた小笠原が大圓寺さんに鉄板を奉納、この話を聞いた光雲が、めくれた鉄板を波に見立て、波間に立つ観音像を彫ってあげたそうです。洒落ています。右下の童子は高弟の三木宗策の作だそうです。
やはり像は拝観できませんでしたが、鉄板は本堂に納められていました。
これ自体はいい話ですが、七観音が空襲で焼失した件なども併せ、やはり戦争の恐ろしさを実感せざるを得ませんでした。
さて、都内には光雲ゆかりの寺院がまだまだあり、足を運んだことのない場所も多いので、また折を見て廻ってみたいと思っております。
【折々のことば・光太郎】
軽くして責なき人の口の端 森のくらやみに住む梟(ふくろふ)の黒き毒に染みたるこゑ 街(ちまた)と木木とにひびき わが耳を襲ひて堪へがたし
詩「梟の族」より 大正元年(1912) 光太郎30歳
もともと、恋愛関係となった光太郎智恵子をゴシップ的に尾ひれを付けて噂する口さがない人々に対する批判として書かれた詩です。
世論といったものも、「軽くして責なき人の口の端」が増大することで、危険な方向に進み、やがて戦争へと繋がっていくのかもしれないな、と思いました。