昨日、自宅兼事務所に訃報の葉書が届きました。智恵子の故郷・二本松にご在住で、智恵子に関するご著書もあった児童文学者の金田和枝さん。暮れも押し詰まった先月28日にお亡くなりになったそうです。
左は昭和61年(1986)に歴史春秋社さんから刊行されたジュブナイル『智恵子と光太郎 たぐいなき二つの魂の出会い』、右は同社から平成9年(1997)に刊行された『ふくしま女の時代』(共著、金田さんは「純粋な愛と芸術に一生を貫いた高村智恵子」をご執筆)。
平成24年(2012)、6月には、二本松の智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座’12」で講師を務められ、同じ年の9月、やはり夢くらぶさん主催の「第4回智恵子純愛通り記念碑建立祭」では、参加者全員による「智恵子抄」(二代目コロムビア・ローズさん)斉唱の指揮をなさいました。
その後、お加減が宜しくないとのことで、ケアハウスに入所なさっていましたが、一昨年の智恵子を偲ぶ「第21回レモン忌」では、記念講演をされ、まだまだお元気で何より、と存じました。
その他、当方編集発行の「光太郎資料」を年2回お送りしていましたが、必ずお心の籠もったお礼状を下さり、それによって、元々東京のお生まれで、戦時中に二本松に疎開され、戦後になってそのままそちらでご就職、ご結婚なさったこと、戦時中には光太郎作詞とは知らず「歩くうた」(徳山璉)を歌いながら闊歩されていたことなどを知りました。
しかし、とうとう訃報に接することとなり、かえすがえす残念です。
葉書は埼玉にお住まいのご長男の方からでした。
それによると、「私が死んでも悲しまないでください むしろどんなに幸せな人生を送ることができたかを喜んでください」と書き残されていたそうです。お見事ですね。
改めて、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
かぎりなくさびしけれども われは すぎこしみちをすてて まことにこよなきちからのみちをすてて いまだしらざるつちをふみ かなしくもすすむなり
詩「さびしきみち」より 大正元年(1912) 光太郎30歳
よく存じていた方の訃報に接し、「かぎりなくさびしけれども」、しかし「かなしくもすすむなり」、まさにそういう感じです。