一昨日の『朝日新聞』さんの夕刊に、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が大きく取り上げられました。「発見者」の一人でもある光太郎にも言及されています。

(あのとき・それから)1931年 「雨ニモマケズ」の誕生 悲しみのりこえる切なる祈り

 ソプラノの独唱による宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が、パイプオルガンの音とともにカトリック小倉教会(北九州市)の聖堂に響きわたる。
 オルガン奏者の宮崎裕之さん(61)が曲をつけ、信徒の女性が2011年3月11日の東日本大震災の翌月から十数回歌っている。この3月も予定され、宮崎さんはログイン前の続き「『被災したみなさんを支えたい』という気持ちを、多くの人の心に届けたい」と話す。
 聴衆からの義援金は、津波の被害が大きかった宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区で開業していた心療内科医師桑山紀彦さん(53)に贈られる。桑山さんが代表理事を務めるNPO法人「地球のステージ」は被災者らが語り部として体験を伝え、震災時の映像や写真などを展示する施設「閖上の記憶」を運営する。
 震災時、桑山さんの患者や知人らは家族や親しい人を亡くし、家や暮らし、職場も失い、心は土砂降りの雨にうなだれる状態だった。「支援は無言で『踏ん張れ』と言っていた。『雨ニモマケズ』の気持ちを芽生えさせてくれた」
 宮沢賢治が「雨ニモマケズ」を自身の手帳に記したのは、1931(昭和6)年11月3日だと考えられている。
 その1カ月半前、賢治は勤めていた工場で作る壁材の販路を広げようと上京する列車で発熱。妹トシと同じ結核による死を覚悟し遺書を書き、やっと持ち直して戻った岩手・花巻の病床でつづったのが「雨ニモマケズ」だった。
 岩手は、賢治が生まれる2カ月前の1896年6月に明治三陸大津波、誕生4日後に岩手・秋田で大きな被害があった陸羽地震、亡くなる1933年は昭和三陸大津波に襲われた。度重なる冷害による飢饉(ききん)が女性の身売りや一家心中などの悲劇を増幅させた。
 宮沢賢治記念館の牛崎敏哉副館長(62)によると、賢治は「飢餓の風土」に立ち向かい、農業指導と人々の生活向上のために東奔西走した。だが「長く生きられない」と悟って、「雨にも風にも負けない『丈夫ナカラダヲ』持ちたいと願い、志を成就できない悲しみをのりこえる心からの祈りを言葉にした」。
 死の1年後、地元紙「岩手日報」に初めて活字として掲載され、その後、全集などに収録。祈りと別の利用もされた。太平洋戦争開戦の翌42年には、国民の戦意高揚と滅私奉公を促す目的か、大政翼賛会文化部編の詩集「常盤樹」に収められた。終戦間もない食糧難の時代には、文部省編の教科書「中等国語」で一時「一日ニ玄米四合」の一節を「玄米三合」と書き換えられた。米の配給が一日3合に満たなかったからだという。
 教科書や全集を通じて、賢治作品の中でも多くの人に親しまれた。
 そして東日本大震災で、改めて注目された。震災直後、俳優の渡辺謙さんが、これを読む映像が動画サイトで配信され、フランスやスペイン、アメリカでも朗読された。
 賢治を愛読する岩手県立大槌病院の心療内科医師、宮村通典さん(71)は、患者に「眠れていますか」と声をかけ、心身のケアに携わる。震災発生時は長崎県大村市の病院副院長だった。僧侶でもある宮村さんを転身させたのは、「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ」の「行ッテ」だった。「閉じこもり、悲しみにある人を受け入れ、立ち上がるための支援を医療や福祉関係者らと手を携えて取り組みたい」。震災から6年。仮設住宅に暮らす住民、親しい人を亡くし孤独感を抱える人……。震災の爪痕はいまだに消えていない。
 宮沢賢治記念館の牛崎さんは「雨ニモマケズ」に、現代への啓示を読み取る。震災直後は「行ッテ」に意味を見いだし、1、2年後は「ヨクミキキシワカリ」に心を砕いた。これからは、「ソシテワスレズ」であると。(平出義明)

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光太郎の名は、賢治の実弟・清六の令孫である宮沢和樹氏の稿に載っています。

■「人のために」気づかされ 宮沢賢治の弟・清六の孫、宮沢和樹さん(52)

 賢治さんが書き留めた手帳が13冊残っていますが、1冊に「雨ニモマケズ」がありました。祖父が賢治さんの原稿を詰めたトランクから賢治さんの死の翌年見つけました。
 祖父は生前、「兄は作品として書いたものではない」と話していました。終盤に、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と記しています。結核で体が弱っているとき、こういう人として生きてみたかったし、なりたかったが、なれなかったという、自分に向けた言葉であり、祈りの言葉でもありました。最後のページは「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の曼荼羅(まんだら)で終えています。
 手帳を発見した場にいた高村光太郎さんや草野心平さんらと相談したのでしょうが、賢治さんとともに「行ッテ」という言葉を知ってもらうために、作品として出版したのです。「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ」など、東西南北の困っている人のところに助けに行く人になりたいと。東日本大震災ではボランティア、警察官、自衛隊員、医師らが活躍しました。その人たちは自らの行動を、自らに向けて表現した言葉が「雨ニモマケズ」だったと聞き、賢治さんも納得されたのではないかと思いました。
 賢治さんの作品は、これまでも多くの方が絵本や音楽、アニメにされています。「人のために」という気持ちや優しさに、気づかせてくれるからではないでしょうか。


「雨ニモマケズ」、上記記事にあるとおり、もうすぐ6年経つ東日本大震災の折には、、被災者の皆さんへのエールとして脚光を浴びました。

しかし、これも記事にあるとおり、戦時中には戦意高揚のために編まれた詩集『常盤木』に収められたり、戦後の復興期には「玄米三合」と書き替えられたりという、一種の冒涜のようなことも為されています。窮乏生活でも賢治を見習って我慢しろ、ということでしょうか。

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天災である震災で苦しい時に、自然に人々の間に沸き上がった「雨ニモマケズ」讃仰と、人が起こした戦争による窮乏状態の時に、上から押しつけのように「雨ニモマケズ」を与えること、これを同列にはできませんね。

ちなみに『常盤木』には、光太郎の散文「詩精神」と、詩「秋風辞」も掲載されています。

「道程」に代表される光太郎の詩の数々、そして賢治の「雨ニモマケズ」は、苦しい中でも新しい道へ踏み出す人々へのエールとして、使われ続けていってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

こころよ、こころよ わがこころよ、めざめよ 君がこころよ、めざめよ

詩「或る夜のこころ」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

デカダンス生活への訣別宣言であると同時に、「君」=智恵子と共に手を取り合って生きて行こうという決意表明も含むでしょう。

同じ「或る夜のこころ」の中に、「めざめ」る前の現状を「病の床」「アツシシユの仮睡」と表現しています。「アツシシユ」は「ハシッシュ」、マリファナですね。実際に使っていたわけではありませんが。