先月、盛岡の地方紙『盛岡タイムス』さんに以下の記事が載りました。花巻高村光太郎記念会さんから画像を戴きました。

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写真で見る花巻での生活 賢治との関わりにも 花巻高村光太郎記念会 新しい図録集を刊行

 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)は、花巻市で晩年を過ごした詩人・彫刻家高村光太郎の暮らしや生涯で残した彫刻、詩、書などを掲載した図録写真集「高村光太郎 Kotarou Takamura 1883-1956」を刊行した。
 これまでの図録を一新。本図録では光太郎と花巻出身の宮沢賢治との出会いや宮沢家との交流にスポットを当て、光太郎の愛用品からその人柄をしのばせるなど、光太郎入門としてもわかりやすく、手に取りやすい内容になっている。
 直接の出会いは一度きりだった賢治の作品を高く評価し、賢治亡き後、その全集刊行に携わった光太郎。1945年4月の東京大空襲でアトリエが全焼し、花巻にやってきた光太郎を温かく迎え入れた宮沢家とのエピソード、その後の太田村(現、花巻市)の山荘でのつつましい暮らしぶりなど写真をふんだんに使って紹介。
 「光太郎の食卓」のページでは、自給自足の生活に入っても東京育ちで留学経験のある光太郎らしく、牛の尻尾で作る「テールスープ」やそば粉の焼きパンなど、しゃれた料理を好んだエピソードも紹介。三度の食事作りに使ったナイフ、ほぼ毎日食べていたバターを保存する館などの愛用品も写真で紹介している。
 3.11絵本プロジェクトいわて代表の末盛千枝子さん(八幡平市在住)、方言指導・朗読教室主宰者の谷口秀子さん(花巻市出身、花巻イーハトーヴ大使・希望王国いわて文化大使)が「高村光太郎との思い出」として寄稿している。
 同図録の編集に関わった高村光太郎記念館の井形幸江さんは「花巻ゆかりの光太郎と賢治は同時代を生きた人で、光太郎は賢治を見いだして世に出した人でもある。図録を通して2人の関わりに改めて関心を寄せ、親しみを持ってもらえればうれしい」と話す。
 高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さんが監修した。25×25㌢の変形版、55㌻オールカラー。税込み2000円。
 花巻市太田3の85の1の同記念館(電話0198-28-3012)で販売している他、希望者には郵送も受け付けている(送料は別途)。12月28日から1月3日は休館。


昨年7月の刊行なので、半年遅れですが、大きく取り上げて下さり、ありがたく存じます。当方の名も出していただきました。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

余を目して孤独を守る者となす事なかれ 余に転化は来るべし 恐ろしき改造は来るべし 何時(いつ)なるを知らず ただ明らかに余は清められむ

詩「廃頽者より――バアナアド・リイチ君に呈す――」より
 明治44年(1911) 光太郎29歳

「パンの会」で酒に酔って大騒ぎをしたり、無計画に北海道に渡ったりといった馬鹿をやるのにはもう飽きた、というところでしょうか。「パンの会」には参加せず、異国にやってきて奮闘している親友、バーナード・リーチにあてて、決意表明をしています。