日本のアートオークション運営会社の中でも大手のシンワアートオークションさん。たびたび光太郎の父・高村光雲の作品が出品され、このブログでもご紹介していますが、来月開催のオークション「近代美術partⅡ」で光太郎のブロンズが出品されます。
作品は「野兎の首」。戦後、花巻郊外太田村の山小屋に隠棲していた頃の作品です。発見されたのは光太郎歿後の昭和32年(1957)。山小屋を「高村山荘」として保全するための工事中でした。
この作品について、令甥である故・髙村規氏の回想から。
山小屋へ移って最初に作った詩「雪白く積めり」を、記念に詩碑にするってことで、三回忌に詩碑にしたんです。その時に村のお百姓さんが「囲炉裏の灰の中から、こんな土の塊が出てきたんですけど、これ一体なんでしょうかね」って持ってきたんです。見たら、手のひらにのる一握りの土の塊なんですね。目とか耳らしきものがあるんで兎みたいに見えたんですよ。これはもう小屋の周りの普通の地面の土です。水に溶かしてドロドロにした土を粘土みたいにして作って囲炉裏の火で焼いたんですね。おそらく気持ちとしてはテラコッタみたいになればいいなと思って焼いたんだと。だけど囲炉裏の火じゃあ温度が上がりませんから完璧には焼き締めができてないで、そのまま灰の中に埋めてあったんですね。農家の人たちが掃除したらそういう物が囲炉裏にあるのを見つけたんですね。何か塊だから取っておいた、それを僕がたまたま詩碑のことで行ったもんですから持ってきてくれたんです。
見たら、砂の塊みたいでポロポロポロポロ崩れてくるんですね。ちょうど親父(注 鋳金の人間国宝・高村豊周)のお弟子さんの西大由さんが一緒に僕についてきたもんですから、その人と相談して旅館まで、ハンカチにくるんで怖々やっとの思いで運んで、親父に電話したんです。そうしたら「それは貴重な彫刻かもしれないから、何とかして、うまく石膏だけ残してくれ」。そのお弟子さんとしゃべったら「石膏に取るのはいいけど、石膏が失敗したら両方ともだめになっちゃうよ。そこんとこをお父さんによく言っといてくれ」って言うから「そう言ってるよ」って言ったら「まあ、失敗するかどうかはともかく、石膏を用意してもらって、その土を石膏におこしてくれ」。
失敗したらやむを得ない。そのまま東京へ持ってきたら、汽車の中で崩れちゃうのは目に見えてますから。「失敗してもいいから兎に角石膏に取れって言ってるよ」。「よし」ってんで石膏取りが始まりました。西さんは石膏をどうやって手に入れたんだろう、丁寧に旅館の人に頼んでどっかで石膏を買ってきてもらったのかな。旅館の部屋の廊下のところで、石膏を溶いて、その土の塊にかぶせたんですよ。
そして取った行程を全部、カメラ持ってたもんですから写真撮りました。石膏は全部うまく成功したんですね。石膏に取って初めてわかったんです。兎の首なんですね。それを親父がブロンズにおこしましてね。《野兎の首》っていうタイトルでよく展覧会に出品するんです。それが戦後七年間の岩手の山小屋時代の唯一の彫刻なんですね。親父はその時はもうほんとに涙を流して喜んでましたね、兄貴はやっぱり彫刻家なんだと。
(碌山忌記念講演会 「伯父 高村光太郎の思い出」 碌山美術館報第34号 平成26年=2014)
……という、ドラマチックな経緯を経て発見された彫刻というわけです。
落札予想価格の設定が30万から50万。光太郎ブロンズとしては破格の廉価(おかしな日本語ですが)です。というのは、あくまできちんとした制作ではない小さな習作――あるいは習作ですらない手すさびだということが挙げられます。とはいうものの、決して「駄作」というわけではありません。小品ながら行き届いた造形感覚、そしてちゃんとした粘土を使っていないことによって生じた荒々しいタッチが、かえって得(え)も言われぬ不思議な美を醸し出している優品です。下記写真も規氏撮影です。
それから、最初の段階で複数鋳造され、昭和53年(1978)には花巻高村記念館の功労者に、新たに鋳造されて配布されたりもしていますので、同一の物がかなりあることも、あまり高価な設定になっていない理由の一つでしょう。
ただし、あくまで予想価格。オークションですので、蓋を開けてみればとんでもなく跳ね上がる(兎だけに(笑))こともあり得ます。というか、ある意味、そうなってほしいという気もします。「こんなものに大枚はたくのは馬鹿馬鹿しい」といわれてしまうのも癪ですので(笑)。
下見会が1月18日(水)〜1月20日(金) 10:00〜18:00と、21日(土) 10:00〜16:00、オークション本番が28日(土)15:00から、シンワアートミュージアムさん(東京都中央区銀座7-4-12 銀座メディカルビル(旧ぎょうせいビル) 1F)で開催されます。
懐に余裕のある方、是非どうぞ。
【折々の歌と句・光太郎】
揚げものにあげるをやめてわが見るはこの蓮根のちひさき巻葉
昭和5年(1930)頃 光太郎48歳頃
昭和5年(1930)頃に制作された木彫「蓮根」(写真:髙村規氏)を包む絹の袋にしたためられた短歌です。
もういくつ寝ると、お正月。お正月といえば、おせち料理。おせち料理には蓮根が欠かせませんね。当方、あまり好きではありませんが(笑)。
光太郎、木彫作品には、ほぼ必ず智恵子手縫いの袋か袱紗(ふくさ)をつけ、短歌を添えています。木彫ではありませんが、「野兎の首」に、もし短歌を添えたとしたら、どんな歌が出来ていたのかなどと想像してしまいます。