一昨日、昨日と、ATV青森テレビさんの撮影で、都内の光太郎ゆかりの地を歩き、光太郎本人を知る方々へのインタビューに同行しました。
予定では暮れも押し詰まった12月29日(木)、16:55から、同局で「乙女の像への追憶――十和田湖国立公園80周年記念」という30分番組が放映されることとなり、旧知の同局アナウンサー、川口浩一氏がレポーター役でご出演、当方に協力要請があった次第です。
十和田湖周辺が国立公園指定80周年というわけで、同じく15周年を記念して制作された、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を特集する番組です。これまでに十和田湖、花巻でのロケが終了、そして東京で、というわけです。
ゆかりの場所の全てをまわったわけではありませんが、さながら都内光太郎文学散歩的な2日間でした。
一昨日、上京して来られる青森テレビさんと上野駅で待ち合わせ。予算の関係で、クルーはディレクター氏と川口氏のお二人だけです。ディレクター氏おん自らカメラを回すとのこと。それでも青森の局が東京まで取材に来るというのは異例のことだそうです。
上野で昼食を摂りました。どうせですので、光太郎の父・光雲が制作主任を務めた西郷隆盛像近くのお店に入りました。
スカイツリーとのツーショット。
上野公園内、紅葉と、それから画像ではわかりにくいのですが、桜も咲いていました。
JR、東京メトロ千代田線と乗り継いで、光太郎が永らく住んだ文京区千駄木に向かいました。
団子坂を上って右に曲がり、旧駒込林町、光太郎のアトリエ跡地へ。
現在は一般の民家が建っています。
団子坂方面に戻ります。天保年間創業のそば屋・巴屋さん。よく光太郎実家に出前を届けたそうです。
団子坂を下りると、明治8年(1875)創業の「菊見せんべい」さん。
光太郎も買いに来たという話がありますし、少年期、ここの看板娘さんが気になって気になってしょうがなかったそうで、美術学校への行き帰り、顔が赤くなって困るので、わざわざ遠回りしたそうです。光太郎、ウブでした(笑)。
そして、やはり千駄木の、当会顧問・北川太一先生宅に。こちらで北川先生と当方のインタビューを収録しました。
北川先生には、インタビューというより、事前に「こういうお話を……」と伝えておき、カメラは回しっぱなしで自由に語っていただきました。おん年91歳ですが、語り出したら止まらないもので(笑)。結局この日も、1時間以上、光太郎について熱く語って下さいました。やはり、生前の光太郎本人をご存じの方のお話は違います。
この日はここまで。
翌日(昨日)は、朝、中野駅で待ち合わせ。光太郎終焉の地にして、「乙女の像」が制作された中西家アトリエへ。
昭和23年(1948)、新制作派所属の水彩画家・中西利雄が建てたアトリエですが、中西自身が早逝してしまい、昭和27年(1952)から光太郎が借り受けました。光太郎の前には、やはり彫刻家のイサム・ノグチも借りていました。ノグチの妻は、一昨年亡くなった李香蘭こと山口淑子さんでした。
そしてここは、光太郎一周忌の昭和32年(1957)、草野心平らの呼びかけにより、第一回連翹忌が開かれた場所。いわば当会発祥の地です。
まずは旧桃園川だった緑道(現在は暗渠)から撮影。
中に入れていただき、中西画伯の子息・利一郎氏に取材。氏は「乙女の像」制作中の光太郎を間近にご覧になっていた方です。
中西家に遺る、光太郎ゆかりの品々も撮影させていただきました。
左・中西夫人と光太郎。右・花巻郊外太田村から中西夫人に宛てた葉書。「これからお世話になります」的な。
左・中西夫人に託した買い物メモ。右・利一郎氏ら、お子さんたちへのお年玉の熨斗袋。といっても、原稿用紙を折りたたんで作られています。こういう生活臭のある物、いいですね。
昼になったところで辞去。昨年も中西家にお邪魔してお話を伺いましたが、今回、その際には出なかったお話も聞け、実に有意義でした。
この他にも、光太郎が学んだ日暮里尋常小学校(現・第一日暮里小学校)や東京美術学校(現・東京芸大)、智恵子が学んだ日本女子大学校(現・日本女子大)、智恵子終焉の地・ゼームス坂病院跡(南品川)、駒込染井霊園の高村家墓所などなど、ゆかりの地をあげればきりがありませんが、さすがにそこまで廻る余裕はありませんでした。
番組は先述の通り、12/29のオンエアです。また近くなりましたら詳細をお伝えします。
【折々の歌と句・光太郎】
うづだかき泥をひねもすこねしかばかひな太ももふとりて張りけり
大正15年(1926) 光太郎44歳
「泥」は彫刻用の粘土です。駒込林町のアトリエで、彫刻制作に脂の乗っていた時期の短歌です。