光太郎の父・光雲が彫刻を手がけた、横浜南区山王町に伝わるお三の宮日枝神社さんの「火伏神輿」。その名の由来は、関東大震災と太平洋戦争の空襲をくぐりぬけたことです。
毎年9月、日枝神社さんの例大祭で、伊勢佐木町のイセザキ・モールを巡行するのですが、今年は修復作業に入っていたため、出ませんでした。そのため、今年はこのブログでも日枝神社さんの例大祭をご紹介しませんでした。
このたび、その修復が終わり、イセザキ・モールさんでお披露目が始まったそうです。
横浜・伊勢佐木町繁栄の象徴 「火伏神輿」
◆90年の歴史で初の修復作業横浜・伊勢佐木町の繁栄の象徴で、関東大震災と横浜大空襲を免れた神輿(みこし)「火伏(ひぶせ)神輿」が90年余りの歴史で初めての修復作業を終えた。28日にJRAエクセル伊勢佐木(神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1丁目)でお色直しを済ませたばかりの神輿が披露された。
1923年に完成した神輿は日枝神社例大祭などで担がれてきたため、彫刻や金具が欠けたり、塗りが剥がれたりするなどの傷みが目立っていた。
そのため、東京都内の文化財修復専門工房に運ばれて、彫刻家・高村光雲(1852~1934年)が手掛けた彫刻を復元。奈良・法隆寺の七堂伽藍(がらん)に施されたものと同じ極彩色の染料を塗り直し、鮮やかによみがえった。
今年3月から「MIHO MUSEUM」(滋賀県甲賀市)で開かれた特別展に貸し出した際、学芸員から「大正期の名工が古代御輿の粋を極めた貴重なもの。豪華な装飾を含めて文化財級」と高い評価を受けたこともあり、今回、本格的に修復を行うことにした。
神輿がガラスケースに無事に収められると、伊勢佐木町1丁目の婦人用品店4代目店主、津田武司さん(77)は大きな拍手を送った。「神輿が戻ってきてうれしいの一言。世代を超えて大切にしたい」
吉田新田の完成350周年を迎える来年9月の日枝神社例大祭でイセザキ・モールを練り歩くことにしている。
◆火伏神輿 伊勢佐木町の町内会が1915(大正4)年の大正天皇の即位の礼を記念し、高村光雲に制作を依頼した。23年9月、完成目前に東京・上野の工房で関東大震災に遭遇。火に包まれる直前に部材をすべて運び出し、震災10日後に無事納められたと伝えられている。
(2016/11/29 『神奈川新聞』)
記事にある「「MIHO MUSEUM」(滋賀県甲賀市)で開かれた特別展」はこちら。
『東京新聞』さんの神奈川版にも記事が出ました。
よみがえった火伏神輿 修復終わり、イセザキ・モールで展示
明治時代の彫刻家・高村光雲(一八五二~一九三四年)らが制作した「火伏神輿(ひぶせみこし)」の修復が終わり、二十八日、神輿を所有するイセザキ・モール(横浜市中区)にあるJRAエクセル伊勢佐木一階ホールで展示が始まった。観覧無料。 神輿は大正天皇の即位を記念し、伊勢佐木町の町内会が高村光雲に制作依頼。高村や東京美術学校(現・東京芸術大)の教授らが一九二一年に東京都内で制作を始めた。二三年九月の完成直前に発生した関東大震災や、四五年五月の横浜大空襲などの火災を免れたことから、火災を防ぐ「火伏神輿」と呼ばれるようになった。高さ一・八メートルで幅一・四メートル、担ぎ棒を含む長さは二・九メートル。
大掛かりな修復は初めてで、六月から東京都狛江市で文化財修復工房を営む桜庭裕介さん(63)が手掛けた。色がはげた部分はエックス線で表面を分析し、制作当時と同じ顔料で補修。特殊な樹脂を染み込ませて今後の色あせを防ぎつつ、約一世紀の歴史を感じさせる退色はそのままにした。木彫の欠損は木の粉や漆などを混ぜたもので補った。
来年は、これまで通り九月の地元の祭りで担がれる予定。祖父が制作時の世話人で、宝石店経営を受け継ぐ渡辺洋三さん(64)は「祭りでは乱暴に扱うこともあった」と苦笑しながら「町の人に、素晴らしい神輿だと再認識してほしい」と願った。(梅野光春)
今回いつまで展示されるのか、記事からは不明ですが、以前は祭りの時以外は神奈川県立歴史博物館さんで展示されていたので、今後もそうなるのではないかと思われます。
さらに同時期に光雲によって作られた獅子頭もセットです。
ぜひきれいになった神輿をご覧下さい。
【折々の歌と句・光太郎】
夕ぐれの雁におもはず窓あけてまたたき多き星を見しかな
明治33年(1900) 光太郎18歳
冬が近づき、空気がキインと澄んでいるため、星がきれいに見えます。当方自宅兼事務所のあるあたりは千葉でも田舎の方でして、夜間の光害が少なく、星の観察にはもってこいです。