昨日まで福島相双地域でのレポートを書いておりましたら、その間にも新聞各紙で光太郎に関連するコラムや記事が出ています。

まずは『岩手日報』さんの一面コラム。

風土計 2016.11.13

 色紙を四つ折り、八つ折りにしてはさみで切り抜く。それを広げるとシンメトリー(左右対称)の模様が浮かび上がる。幼い頃、偶然にも魅力的なデザインができたときは、いっぱしの芸術家気分になったものだ
▼切り抜きを芸術の域まで高めたのが、今年生誕130年の高村智恵子。夫の彫刻家、詩人の光太郎は作品を「すべて智恵子の詩(うた)であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、此世(このよ)への愛の表明である」と書いた
▼2人が合作した唯一の作品「いちご」。水色の台紙に色紙を切り貼りして真っ赤な9つの実、緑色のへた、白い花を表現した。随所に入れた切れ目が立体感を生む。智恵子を思う光太郎の画賛が胸に響く
▼雑誌「青鞜(せいとう)」創刊号の表紙絵で注目された画家の智恵子。しかし、芸術的苦悩や実家の一家離散で心を病み、入院生活を強いられた。作業療法として身の回りの色紙や包装紙を切り抜いて台紙に貼り、多くの作品を残した
▼題材は果物や植物、魚など身近なもの。光太郎は「紙絵」と名付け、戦時中は花巻市などに疎開させて大切に守った。同市の高村光太郎記念館で開催中の紙絵展は、無垢(むく)な作品を目にできる貴重な機会だ
▼紙絵は、光太郎の詩集「智恵子抄」に応える相聞歌との指摘もある。光太郎に作品を見せる智恵子の顔は、恥じらいと喜びに満ちていた。

現在、花巻市郊外の高村光太郎記念館さんで開催中の企画展、高村光太郎没後六〇年・高村智恵子生誕一三〇年 企画展 智恵子の紙絵にからめ、智恵子の紙絵をご紹介下さいました。

中ほどに出て来る「いちご」はこちら。

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本土空襲が激化した昭和20年(1945)3月、光太郎の手元にあった1,000点を超える智恵子の紙絵は、山形、茨城、そして花巻の3箇所に分散疎開させました。そして、おそらく戦後になってから、再びまみえたこの紙絵に光太郎が揮毫したものです。

右側に「智恵子遺作切抜絵数種恵存」、左側に短歌「気ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばむとすらむ」と署名。「恵存」ということで、花巻病院の佐藤隆房院長に贈られ、現在は花巻高村光太郎記念館さんに収められています。光太郎が智恵子紙絵に何か書き記したものは、確認できている限りこれだけです。

企画展「智恵子の紙絵」は来週23日(水・祝)までの開催です。


続いて、一昨日の『読売新聞』さんの静岡版。

縄文から現代 立体作品160点

◆静岡、きょうから企画展
 縄文時代の土偶(どぐう)や弥生時代の埴輪(はにわ)をはじめ、現代までの立体造形作品を集めた「再発見!ニッポンの立体」(読売新聞社など主催)が15日から県立美術館(静岡市駿河区谷田)で開かれる。14日午後の開会式と内覧会には招待客約200人が訪れ、一足早く作品を鑑賞した。
◆リアルな雰囲気のマネキン
 会場には仏像や彫刻、人形など約160点が展示された。1971年にマネキン会社の造形作家2人が、若者3人が休憩する様子を作品にしたマネキン「仲間」や、食品サンプル、不二家のペコちゃん人形、フィギュアなどが並ぶ。高村光太郎や平櫛田中(ひらくしでんちゅう)ら著名作家の作品もある。
 展覧会を企画した同館の村上敬・上席学芸員は「準備作業で、現代のフィギュアは近世から明治初期ぐらいの人体造形と類縁性があり、大正から昭和前期の彫刻は違う方向という発見があった」と話し、展示内容の豊富さを強調する。
 妻と2人で会場を訪れた掛川市旭ヶ丘の高校教諭佐藤啓治さん(64)は「昔の若者がたばこを吸う様子のマネキンが展示ケースに入れられずに飾られ、リアルな雰囲気で驚いた」と感想を話した。
 来年1月9日まで開催。月曜休館(1月2、9日は開館)。一般1000円、70歳以上500円、大学生以下無料。開館時間は午前10時~午後5時半(入室は午後5時まで)。問い合わせは同美術館(054・263・5755)。


過日ご紹介した静岡県立美術館さんでの企画展「再発見!ニッポンの立体 生人形(いきにんぎょう)からフィギュアまで」の紹介です。

光太郎、光雲の作品が2点ずつ展示されています。


さらに、訃報が1件。

新派俳優の英太郎氏死去

 英太郎氏(はなぶさ・たろう、本名大久保秋久=おおくぼ・あきひさ=新派俳優)11日午後11時、虚血性心不全のため東京都内の自宅で死去、81歳。
  新潟県出身。葬儀は近親者で行い、後日お別れの会を開く予定。喪主は妹大久保サチ子(おおくぼ・さちこ)さん。
  52年に新派の名女形だった初代英太郎に弟子入りし、新橋演舞場で初舞台。師匠の死後、73年に二代目英太郎を襲名し、新派唯一の女形として芸の存続に努めた。今年9月の新橋演舞場、大阪松竹座での「深川年増」のおよし役が最後の舞台となった。
(時事通信 2016/11/13)

スポーツ紙系の方が詳しく載っています。

英太郎さんが死去 81歳、虚血性心不全 新派の女方

009 新派の女方として長く活躍した俳優の英太郎(はなぶさ・たろう、本名大久保秋久=おおくぼ・あきひさ)さんが11日午後11時、虚血性心不全のため都内の自宅で死去したことが13日、わかった。81歳。新潟県出身。通夜は19日、告別式は20日に都内で、家族葬として営まれる。喪主は妹の大久保サチ子(おおくぼ・さちこ)さん。別途、お別れ会を開く予定。

 英さんは1935(昭和10)年、料亭・芝居小屋の家に生まれた。52(昭和27)年、新派の名女方だった初代英太郎に弟子入りし、「築地明石町」で初舞台。65年、幹部昇進。師匠の死後、73年に二代目英太郎を襲名した。

 新派唯一の女方として、女方芸の向上と存続に努め、13年には「FULL HOUSE」で米オフ・オフ・ブロードウェイ出演。今年9月の新橋演舞場・大阪松竹座「九月新派特別公演」での『深川年増』のおよしが最後の舞台となった。主な受賞に松尾芸能賞演劇特別賞、菊田一夫演劇賞、芸術祭賞。

 今年9月、新橋演舞場、大阪松竹座「九月特別新派公演」での『深川年増』のおよしが最後の舞台となった。
(『デイリースポーツ』 2016/11/13)


そのお名前が記憶にあり、調べてみたところ、昭和46年(1971)の「新派十一月公演」でした。

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昼の部で、北條秀司脚本、初代水谷八重子さん主演の「智恵子抄」が演目に入っており、第四幕、智恵子が心を病んで入院したゼームス坂病院でのシーンに、「老婆の患者」役で英太郎さんの名。

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しかし、45年前に「老婆」というのもおかしい、と思って調べてみると、これはこのたび亡くなった方ではなく、初代の英太郎さんでした。

ところが、このたび亡くなった二代目英太郎さん、旧芸名の「大久保彰久」で出演されていました。役名は「声楽家の患者」でした。

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手元に脚本もありましたので、読み返してみました。ただ、そういう時代だったと言ってしまえばそれまでですが、精神疾患に対する偏見が色濃い脚本で、「何だかなあ」という感じでした。

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何はともあれ、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々の歌と句・光太郎】

ひとり出でゝ高嶺の夜に嘯けば星斗爛干月落ちんとす
明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

「嘯けば」は「うそぶけば」。「ばかにする」とか「大言壮語」的な「うそぶく」ではなく、「鳥獣が吠える」の意で使っていると思われます。「爛干」は「闌干」とも書き、星や月の光があざやかなさまを指します。

少し前に「スーパームーン」だったのですが、残念ながら当日には見えませんでした。今夜はしし座流星群の出現が極大です。

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母星であるテンペル・タットル彗星が通過した直後の平成13年(2001)には1時間当たり数千個が見えましたが、このところは1時間に数個というところでしょう。

数年前、福島川内村での「かえる忌」に参加した際、見えた記憶があります。