まずは先週土曜日の『福島民友』さんの記事。
【二本松】洋風七味『智恵こしょう』販売 「お肉やスープでいかが」
二本松市のにほんまつ観光協会(安斎文彦会長)は、同市出身の洋画家高村智恵子の夫・光太郎の詩集「智恵子抄」をもじった洋風七味「智恵こしょう」(内容量10グラム、税込み600円)を売り出している。
こしょうやハーブソルト、ローズマリー、唐辛子などをブレンドした。県立霞ケ城公園で23日まで開催中の「二本松の菊人形」会場で開かれる紅葉まつり(5、12、13、20の各日)で販売する。
二本松観光大使の女優大山采子さんは「お肉に振り掛けてもおいしいし、スープにしても香ばしい」と笑顔を振りまき、PRしている。
観光大使の一色采子さん(本名・大山采子さん)、相変わらずご活躍です。
「智恵こしょう」、一昨年ぐらいには既に売り出されていたような気がするのですが、良しとしましょう。
察するに、現在開催中の「二本松の菊人形」会場で見かけた記者さんが、「これは面白い」と、取り上げて下さったのではないでしょうか。
菊人形といえば、テレビでCMが流れていて驚きました。昨年の智恵子人形も映っていました。11/23迄の開催です。
11/11 追記 地元の方より、菊人形会場でのイベント情報をお知らせいただきました。下記「コメント」欄、ご覧下さい。
続いて、7日の『毎日新聞』さん。以前にも続けて光太郎が引き合いに出された、俳句に関するコラム「季語刻々」です。
季語刻々 2016年11月7日
五郎丸のポーズをみんな冬来る 児玉硝子(がらす)
季語「冬来る」は立冬を指す。今日が立冬だが、硝子さんの句では、みんながいっせいに五郎丸ポーズをとって冬を迎えている感じ。彼女は大阪市に住む私の俳句仲間。では、高村光太郎の詩「冬が来る」の第一連をどうぞ。「冬が来る/寒い、鋭い、強い、透明な冬が来る」。この冬に私も五郎丸ポーズで向き合いたい。さあ、来い、冬よ。<坪内稔典>
もう立冬が過ぎたか、という感じです。当方、光太郎と違って冬の寒さには弱いので、「まだ秋でいいじゃん」という感覚ですが(笑)。
もう一件、予告です。
『朝日新聞』さんの土曜版に、2ページにわたり「みちのものがたり」という連載が為されています。毎回、全国のさまざまな「道」を取り上げ、それにまつわる人間ドラマを紹介しています。
明後日、11/12の「みちのものがたり」は、青森県の八甲田・十和田ゴールドラインが取り上げられます。予告によれば「明治、大正期の文人・大町桂月が愛し、終生の地とした名湯、蔦温泉があります。」とのことです。
光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、もともと十和田湖の国立公園指定15周年記念に、大町桂月ら、十和田湖の紹介、開発に功績のあった3人を顕彰するモニュメントとして企画されました。桂月が取り上げられるということで、光太郎や「乙女の像」にも言及していただきたいものです。
【折々の歌と句・光太郎】
オベリスク金にかはれてアメリカの町に立つかよ此のオベリスク
制作年不詳
舞台はニューヨークのセントラルパーク。エジプトから運ばれて建てられたオベリスクを詠っています。
明治39年(1906)から翌年にかけてのアメリカ留学中の経験を下敷きにしている詩「象の銀行」にも、このオベリスクが使われます。大正15年(1926)の作。
象の銀行
セントラル・パアクの動物園のとぼけた象は、
みんなの投げてやる銅貨(コツパア)や白銅(ニツケル)を、
並外れて大きな鼻づらでうまく拾つては、
上の方にある象の銀行(エレフアンツ バンク)にちやりんと入れる。
みんなの投げてやる銅貨(コツパア)や白銅(ニツケル)を、
並外れて大きな鼻づらでうまく拾つては、
上の方にある象の銀行(エレフアンツ バンク)にちやりんと入れる。
時時赤い眼を動かしては鼻をつき出し、
「彼等」のいふこのジヤツプに白銅を呉れといふ。
象がさういふ。
さう言はれるのが嬉しくて白銅を又投げる。
「彼等」のいふこのジヤツプに白銅を呉れといふ。
象がさういふ。
さう言はれるのが嬉しくて白銅を又投げる。
印度産のとぼけた象、
日本産の寂しい青年。
群集なる「彼等」は見るがいい、
どうしてこんなに二人の仲が好過ぎるかを。
日本産の寂しい青年。
群集なる「彼等」は見るがいい、
どうしてこんなに二人の仲が好過ぎるかを。
夕日を浴びてセントラル・パアクを歩いて来ると、
ナイル河から来たオベリスクが俺を見る。
ああ、憤る者が此処にもゐる。
天井裏の部屋に帰つて「彼等」のジヤツプは血に鞭うつのだ。
ナイル河から来たオベリスクが俺を見る。
ああ、憤る者が此処にもゐる。
天井裏の部屋に帰つて「彼等」のジヤツプは血に鞭うつのだ。
もともとは西洋的唯物主義、行き過ぎた資本主義、帝国主義への警句として書かれた詩です。しかし、のちに昭和19年(1944)になって、単に光太郎に人種的劣等感を植え付けた当時の敵国・アメリカへを批判している点から、翼賛詩集『記録』に収められるという韜晦が為されました。
その際に付された前書きにはこのように書かれています。
大正十五年二月作。明治三十九年夏から冬筆者は紐育市西六五丁目一五〇番にある家の窓の無い天井裏の小さな部屋に住んでゐた。光線は天井の引窓から来た。市の中央公園が近いのでよく足を運んだ。そこには美術館もあつた。小さな気のきいた動物園もあつた。埃及から買取つたオベリスクも立つてゐた。みな金のにほひがしてゐた。
アメリカ大統領選挙、トランプ氏の勝利に終わりました。ヒスパニック系の人々などが、光太郎と同じような「憤り」を感じないようなアメリカであってほしいものですが……。ましてや「ジャップ」という語がまたまかり通るようになるのも困りものです。