うっかり紹介を忘れていました。岩手県盛岡市の盛岡てがみ館さんの企画展です。
第51回企画展「文豪たちの原稿展」
期 日 : 2016年10月25日(火)~2017年2月13日(月)
会 場 : 盛岡てがみ館 岩手県盛岡市中ノ橋通1-1-10 プラザおでって6階
料 金 : 一般:200円(団体160円) 高校生:100円(団体80円)
※団体は20名以上からとなります。11/3は入館料無料、ポストカード進呈
※団体は20名以上からとなります。11/3は入館料無料、ポストカード進呈
「文豪」たちの名作は,年月を経た今もなお,読者に長く親しまれています。本展では,与謝野鉄幹・晶子夫妻,萩原朔太郎,高村光太郎といった日本の文壇で大きな功績を残した作家のほか,岩手を代表する作家である鈴木彦次郎,森荘己池の原稿を展示します。残された推敲の跡や筆跡など,彼らの直筆原稿から感じ得る「文豪」たちの創作に対する情熱や人柄を紹介します。
〈展示内容〉
○与謝野寛(鉄幹)原稿「啄木君の思出」
○与謝野晶子原稿「啄木の思ひ出」
○高村光太郎原稿「國民まさに餓ゑんとす」 ほか
○与謝野寛(鉄幹)原稿「啄木君の思出」
○与謝野晶子原稿「啄木の思ひ出」
○高村光太郎原稿「國民まさに餓ゑんとす」 ほか
関連行事
開催日・期間:11月23日(水・祝) 時間:14:00~ 場所:盛岡てがみ館 展示室
講師:佐々木章行(当館学芸員) 料金:入館料が必要です。
当館学芸員が、第51回企画展「文豪たちの原稿展」で展示中の手紙について、解説を加え紹介します。
☆ポストカードプレゼント☆
当日来館したお客様にはポストカードをプレゼントします!
当日来館したお客様にはポストカードをプレゼントします!
開催日・期間:2017年1月21日(土) 時間:14:00~15:00 場所:盛岡てがみ館 展示室
講師:磯田望(当館館長) 料金:入館料が必要です。
当館館長が、第51回企画展「文豪たちの原稿展」で展示中の資料や人物について解説を加え、関連するエピソードを紹介します。
「国民まさに餓ゑんとす」は、敗戦間もない昭和21年(1946)2月、『新岩手日報』に掲載された詩です。
国民まさに餓ゑんとす
国民まさに餓ゑんとして
凶事国内に満つ。
台閣焦慮に日を送れども
ただ彌縫の外為すべきなし。
斯の如きは杜撰ならんや。
斯の如くして一国の名実あらんや。
必ずしも食なきにあらず、
食を作るもの台閣を信ぜざるなり。
さきに台閣農人をたばかり
為めに農人かへつて餓ゑたり。
みづから耕すもの五穀を愛す。
騙取せられて怒らざらんや。
農人食を出さずして天下餓う。
暴圧誅求の末ここに至り、
天また国政の非に与せず、
さかんに雨ふらして大地を洗ひ
五穀痩せたり。
無謀の軍をおこして
清水の舞台より飛び下りしは誰ぞ。
国民軍を信じて軍に殺さる。
われらの不明われらに返るを奈何にせん。
国民まさに餓ゑんとして
凶事国内に満つ。
国民起つて自らを救ふは今なり。
国民の心凝つて一人となれる者出でよ。
出でて万機を公論に決せよ。
農人よろこんで食を供し、
国民はじめて生色を得ん。
凶事おのづから滅却せざらんや。
民を苦しめしもの今漸く排せらる。
真実の政を直ちに興して、
一天の下、
われら自ら助くるの民たらんかな。
凶事国内に満つ。
台閣焦慮に日を送れども
ただ彌縫の外為すべきなし。
斯の如きは杜撰ならんや。
斯の如くして一国の名実あらんや。
必ずしも食なきにあらず、
食を作るもの台閣を信ぜざるなり。
さきに台閣農人をたばかり
為めに農人かへつて餓ゑたり。
みづから耕すもの五穀を愛す。
騙取せられて怒らざらんや。
農人食を出さずして天下餓う。
暴圧誅求の末ここに至り、
天また国政の非に与せず、
さかんに雨ふらして大地を洗ひ
五穀痩せたり。
無謀の軍をおこして
清水の舞台より飛び下りしは誰ぞ。
国民軍を信じて軍に殺さる。
われらの不明われらに返るを奈何にせん。
国民まさに餓ゑんとして
凶事国内に満つ。
国民起つて自らを救ふは今なり。
国民の心凝つて一人となれる者出でよ。
出でて万機を公論に決せよ。
農人よろこんで食を供し、
国民はじめて生色を得ん。
凶事おのづから滅却せざらんや。
民を苦しめしもの今漸く排せらる。
真実の政を直ちに興して、
一天の下、
われら自ら助くるの民たらんかな。
敗戦後の深刻な食糧事情を題材としています。そしてそのような事態を引き起こした蒙昧な旧軍部の批判。
同館には、『新岩手日報』編集局長だった松本政治に宛て、この詩の原稿を送った際の添え状も所蔵されています。
松本政治様机下
拝啓、先日は此の深い雪の中を遠路御来訪下され且つ御礼の金品までいただいて恐縮に存じました。御依頼の詩篇ともかくも同封いたします。少し長くなりましたが已むを得ません。今日はよほど空気が冷えてゐると見えて萬年筆の工合が悪いやうです。雪はますます深くなります。郵便が遅れるので困ります。御令息にもよろしく。先日は大澤温泉に無事御宿泊ありしや否やとあとで心配いたしました。 とりあえず右まで。
一月十日夜 高村光太郎
一月十日夜 高村光太郎
この日の日記には、以下の記述があります。
午后「国民まさに餓ゑんとす」といふ詩を書き終り清書、夜封入テガミを新岩手社の松本政治氏にかく。先日の依頼による。三十五行ばかりになりたり。
それに先立つ一月四日の日記には、
午后テカミ書きの時勝治さんの案内にて新岩手日報社の松本政治氏が長男の朗(アキラ)さんと一緒に来訪。一時間余コタツにて談話。三時過辞去さる。スルメ若干と金百円也とをいつぞやの寄稿のお礼なりとてくれる。詩の寄稿を約束。又細かい吹雪となる。その中を帰つてゆかれる。
と記されています。
「いつぞやの寄稿」は、前年9月に同紙に掲載された詩「非常の時」を指すと思われます。
また、同館では、常設展示として光太郎詩「岩手山の肩」の原稿も展示していましたが、おそらくそのままだと思います。
同展について、『毎日新聞』さんの岩手版に記事が出ました。
企画展 文豪たちの原稿資料33点を展示 盛岡てがみ館 /岩手
岩手にゆかりのある文豪たちの原稿を展示した企画展が、盛岡てがみ館(盛岡市中ノ橋通1)で開かれている。推敲(すいこう)の跡や筆跡から、作家たちの人柄や個性がうかがえそうだ。 目を引くのが、与謝野鉄幹が石川啄木を回想した原稿用紙23枚。鉄幹主宰の雑誌「明星」に、啄木が投稿した頃から亡くなるまでの出来事がつづられている。
啄木は歌集「一握の砂」で有名だが、原稿には「君の本領が是れに盡(つ)きたかの如く讀者(どくしゃ)達(たち)に看取(かんしゅ)されることは、私達の遺憾を禁じ得ない」などとあり、鉄幹が啄木の才能を終始高く評価していたことが分かる。
一方、鉄幹の妻晶子は、子だくさんで家計を担った女性らしく、啄木の服装からその人となりを描写している。学芸員の佐々木章行さん(27)は「二人とも啄木を可愛がっていたが、夫婦で視点が変わるのも面白い」と魅力を話す。
他には、萩原朔太郎や高村光太郎の原稿や写真など、関連資料33点が並ぶ。
来年2月13日まで。入館料は一般200円、高校生100円。中学生以下と、盛岡市内の65歳以上は無料。休館は第2火曜日と年末年始。問い合わせは同館(電話019・604・3302)。【藤井朋子】
(2016年10月29日)
岩手つながりで、もう一件、花巻高村光太郎記念館さんで刊行された図録的な書籍『光太郎 1883-1956』について、『朝日新聞』さんの岩手版に報じられています。
岩手)高村光太郎の足跡を図録に 花巻の記念館で販売
花巻市にゆかりの深い彫刻家で詩人の高村光太郎が亡くなってから今年で60年。「花巻高村光太郎記念会」(佐藤進会長)がこのほど、図録「光太郎 1883―1956」を刊行した。花巻市の高村光太郎記念館で販売している。
1945年4月の空襲で東京のアトリエを失った光太郎は、旧知の宮沢賢治の弟清六を頼って花巻の宮沢家に疎開したが、空襲で宮沢家も焼け、同年10月、太田村山口(現・花巻市太田)の山荘に移り、農耕自炊の暮らしを続けた。
図録は縦横25センチの変形サイズのフルカラー52ページ。冬には零下20度にもなる地域の山荘で、詩作と農耕、自然回帰に没入した光太郎の暮らしと足跡を、当時の写真や花巻市周辺の四季の風景写真を織り交ぜて紹介。記念館に収蔵、展示されている木彫やブロンズ像なども掲載、光太郎と親交のあったゆかりの人たちの「思い出」も収録している。
記念館は56年の光太郎の没後、ゆかりの人々が発足させた記念会が山荘の近くに設立し、運営してきた。昨年、市営施設として全面リニューアルし、記念会が市の委託で運営している。来館者から「図録がほしい」との要望があり、スタッフが昨年夏から約1年がかりで編集し、5千部限定で発刊した。1部2千円。問い合わせは記念館(0198・28・3012)へ。(溝口太郎)
(2016年10月29日)
監修は当方の名前になっており、8月に手元に届きました。お世話になっている何人かの方々にお送りしましたが、好評です。
同館のみでの販売ですが、ぜひ足をお運び、ご購入下さい。同館では「高村光太郎没後六〇年・高村智恵子生誕一三〇年 企画展 智恵子の紙絵」展、来月23日(水・祝)まで開催中です。
【折々の歌と句・光太郎】
リンゴばたけに雨ふりて 銀のみどりのけむる時 リンゴたわわに枝おもく 沈々として紅きかな 昭和22年(1947) 光太郎65歳
以前にも一首ご紹介した、「七・五」を四回繰り返す「今様」という形式です。花巻の林檎を歌っています。
この歌をしたためた数種類の揮毫が知られています。
上記『光太郎 1883-1956』に載っているもの。
昭和27年(1952)から同29年(1954)にかけて書かれ、美術史家の奥平英雄に贈られた書画帖「有機無機帖」から。
こちらには、智恵子の紙絵を模して作られた光太郎の紙絵も添えられています。赤い部分はアメリカ煙草・ポール・モール(ペルメル)の空き箱です。