昨日もちらっとご紹介しましたが、新刊です。
リーチ先生
2016/10/30 原田マハ著 集英社 定価1,800円+税
版元サイトより
西洋と東洋の芸術を融合し、新しい陶芸の世界を切り拓いたイギリス人陶芸家バーナード・リーチ。日本を愛し日本に愛されたその半生を二代にわたり弟子となった名も無き父子の視点から描く感動長編。
帯文より
明治42年、22歳で芸術の道を志して来日。柳宗悦、濱田庄司ら若き日本人芸術家との邂逅と友情が彼の人生を大きく突き動かしていく。
明治、大正、昭和にわたり東洋と西洋の架け橋となった生涯を描く感度の“アートフィクション”
広告より
東洋と西洋の架け橋となった生涯を描く感度のアート小説 !!
明治42年、高村光太郎の勧めで日本を訪れた22歳のリーチ。柳宗悦、濱田庄司ら若き芸術家と出会い、陶芸家の才能を開花させていく。その生涯を陶工父子の視点で描く渾身作。
バーナード・リーチは明治20年(1887)生まれの英国人陶芸家。父の仕事の関係で香港に生まれ、幼少期には京都で暮らしました。
一度は銀行員となるものの、少年期に志した芸術制作への思い棄てがたく、明治41年(1908)、退職してロンドン美術学校に入学、エッチングを学びます。同校で留学中の光太郎と知り合い、さらに小泉八雲の著作などから日本への憧れが昂じ、翌年、来日。光太郎は父・光雲への紹介状を書いてやっています。
はじめ、エッチングを教えることで生計を立てていましたが、陶芸に出会い、これこそ自分の進む道と思い定めます。遅れて帰国した光太郎や白樺派の面々、そして陶芸家の富本憲吉、濱田庄司らと交流、1年半の中国滞在期間を除き、大正9年(1920)まで日本に住みました。大正元年(1912)のヒユウザン会展にも参加しています。
滞日中に結婚した妻(リーチの従姉)への配慮もあり、帰国。その際に濱田庄司が同行、イギリス西部のセント・アイヴスに工房を構え、イギリス伝統の陶芸に日本で身に着けた技術を融合させた新しい陶芸を創出しました。
その後、昭和54年(1979)に亡くなるまで、何度も日本を訪れ、長期の滞在を繰り返し、日本全国の窯元を廻ったり、光太郎らと旧交を温めたりもしています。

画像は大正4年(1915)のもの。前列左から画家・長原孝太郎、有島生馬、リーチ夫人、梅原龍三郎、美術史家・田中喜作、後列左から美術評論家・坂井犀水、石井柏亭、美術史家・森田亀之助、リーチ、光太郎、柳宗悦、画家・山下新太郎、同じく斎藤豊作、作家の三浦直介です。
さて、『リーチ先生』。平成25年(2013)秋から、『信濃毎日新聞』さんで連載がスタート。少し経ってからそれを知り、信毎さんでの連載が終わったら単行本化されるんだろうな、と思っていましたが、その後、遅れて全国の地方紙6紙でも連載され、最後は昨年秋まで連載されていました。その分、単行本化を今か今かと待っていたものです。
その期待に違わないものでした。
物語は、大正9年(1920)までの滞日中、そして帰国後の3年間、リーチの助手を務めたという設定の、架空の陶芸家・沖亀乃介(上記写真にも写っている森田亀之助がモデルになっている部分もありますが、あくまで原田さんの創作した人物)を主人公とし、彼の存在以外はおおむね史実に添った内容となっています。
明治末、横浜で食堂の給仕をしていた亀乃介少年は、留学のため横浜港を発つ直前の光太郎と食堂で知り合い、光太郎の紹介で駒込林町の光雲の家で住み込みの書生となります。外国人客との対応で自然と英会話を身につけ、彼らからもらう外国雑誌の挿絵などから「芸術」への憧れをいだいていた、という設定です。
そこにやはり光太郎の紹介でリーチが来日、亀乃介は英語力を買われて助手となり、ともに陶芸の道に進んで行くことになります。
ネタバレになりますので、これ以上は購入してお読み下さい(笑)。ここまででも十分ネタバレでしたが(笑)。さらにネタバレ覚悟の方はこちらをご覧下さい。作者・原田マハさんのインタビューです。
とにかく「前向き」な小説です。登場人物全ての、さまざまな困難に直面しながらも決してくじけず、美の発見や創出に魂を傾けるさまが、生き生きと描かれています。光太郎、光雲、光太郎実弟の豊周も登場します。
特にリーチや亀乃介などの、東洋と西洋の架け橋たらんとする生き様は、感涙無しには読めません。そのあたりには、作家になる前、森美術館さんやニューヨーク近代美術館さんに勤務していたという、作者・原田さんの経験も反映されているように推測しました。
また、もともと新聞連載小説だというところで、こうした「前向き」な部分が前面に押し出されているのかな、とも思いました。ある意味、NHKさんの朝ドラにも通じるような。朝から陰々滅々の物語では参ってしまいます(笑)。
ぜひお買い求めを。
【折々の歌と句・光太郎】
子供らがかきし自由画の我家はいたく曲りて美しきかも
大正15年(1926) 光太郎44歳
子どもの描く絵は、多視点の絵と言われます。一枚の絵の中に、正面から見た構図と、上からの俯瞰、横からの視点などが平気で混在するというのです。それを意識的に行ったのがピカソやブラックなどのキュビズムですね。
子どもも知恵がついてきたり、大人から教えられたりすると、一点透視や二点透視などの固定された視点からの絵を描くようになります。それはそれでリアルに見えるのですが、子ども本来の自由闊達さは失われます。
そうなっていない、ある意味プリミティブな子どもの絵を見た光太郎、その感動を歌にしています。
プリミティブといえば、上記のバーナード・リーチの作陶なども、良い意味でプリミティブな面を残しています。