昨日お伝えしたとおり、来月、福島県いわき市の草野心平生家で開催される「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会で講話を仰せつかっています。題は「草野心平と高村光太郎――魂の交流」としました。

平成25年(2013)、双葉郡川内村の小松屋旅館さんで開催された「第3回天山・心平の会 かえる忌」で、二人の交流について年譜をまとめ、やはり講話をさせていただいたのをベースにします。その際に作成した交流年譜にはまだ漏れが多く、懸案となっていましたので、いい機会と思い、完全版に近いものの作成を目指しております。

そこで一昨日、千葉市の千葉県立中央図書館さんに行きました。目当ては昭和50年代に筑摩書房さんから刊行された『草野心平全集』全12巻。近隣の市立図書館等には所蔵がなく、少し遠出となりました。

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第12巻に、100ページを超える心平の詳細な年譜が掲載されています。年ごとに、その年に発表された詩、散文等の題名、掲載誌が全て記されているので、非常に貴重な資料です。

光太郎に関わる詩文、さらにはイベントや訪問記録などについて、初めはメモを取っていましたが、メモすべき件があまりに膨大なので途中でやめ、100ページ超をコピーしてきました。申請書を書いて自分でコピー、コピー機も5台ほどあったので、館の方や他の閲覧者の方にも迷惑をかけずに済みました。館によっては職員の方にコピーを取っていただいたり、セルフコピーでもコピー機が1台しかなく、独占するには気が引けたりといったところもあり、そういう館では大量のコピーは不可能に近いのですが、今回はラッキーでした。料金も1枚10円で助かりました。

年譜に関しては、自宅兼事務所に帰ってからマーカーでチェックを入れました。心平が書いた光太郎に関する詩文は100編ほど。予想通り、以前にまとめた年譜には漏れていたものも多く、「こんな雑誌にこんなことも書いているのか」といった驚きがいろいろありました。

『草野心平全集』は、共著を除き、単行書として刊行された心平の著書をまとめたもので、新聞雑誌等に寄稿した散文の本文は掲載されていません。したがって、年譜に載っている題名だけでは光太郎に触れているか否か判断がつかないものもあります。

新聞雑誌等に寄稿した散文等のうち、主要なものは昭和44年(1969)刊行の『わが光太郎』にまとめられていますが、それ以降も光太郎に触れた文章は書かれ続けていますし、それ以前のものでも割愛されているものが多くあります。おそらく分量としてはもう一冊『続・わが光太郎』が出来るくらい有るのではないかと思われます。どこかの出版社さんで実現できないものでしょうか。もっとも、同じ主旨のことを繰り返し書いている、という部分はあるのかもしれませんが。

また、光太郎に関するものだけでなく、他の分野でも心平の散文は多く、『草野心平全集』の増補完全版として、全てがまとめられることも期待します。

年譜の載っている第12巻以外にも目を通し、そちらに掲載されていた必要と思われる事項はメモして参りました。それから、各巻のグラビアや月報で、見たことのない関連写真を目にし、また驚かされました。

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昭和28年(1953)、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式前後の十和田湖でのカット。心平の左後に像のモデルを務めた藤井照子が写っています。

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光太郎が歿した昭和31年(1956)、当会顧問の北川太一先生と心平。

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「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」での講話、プロジェクタでスライドショーを投影する予定ですので、このあたりも使おうと思っています。


ついでですのでもう1件。

一昨日訪れた千葉県立中央図書館さんは、千葉県文化会館や千葉市立郷土博物館(千葉城)などとともに、亥鼻公園を形成しています。

その公園内の一角に、こんなものが。

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光太郎の朋友・碌山荻原守衛の絶作にして代表作「女」です。

昭和43年(1968)の建立で、千葉大学教育学部が001もともとここにあって移転したそうで、オブジェ全体が「千葉大学教育学部跡記念碑」です。この地に文化の薫りを、ということで「女」が乗せられています。

数年前にたまたま歩いていて見つけ、驚きました。


【折々の歌と句・光太郎】

十和田湖に泛びてわれの言葉なし晶子きたりて百首うた詠め

昭和27年(1952) 光太郎70歳

今日、10月21日は、昭和28年(1953)に、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式が行われた日です。心平も出席しています。

この歌は、前年、やはり心平も同行した十和田湖の下見の際の作。「泛びて」は「うかびて」と読みます。

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突然、既に亡くなっている与謝野晶子の名が引かれています。

与謝野鉄幹・晶子夫妻は、大正14年(1925)に十和田湖を訪れています。この際の旅行記や短歌は第二期『明星』に掲載されており、当然、光太郎も目にしていますし、ことによると夫妻から十和田湖のすばらしさを直接聞いていたのかも知れません。

そしておそらく、実際に初めて十和田湖を目の当たりにし、それを思い出したのではないでしょうか。