大阪は堺、光太郎の父・光雲がらみの企画展です。

河口慧海生誕150年記念事業「慧海と堺展」

期 日 : 平成28年10月26日(水曜)~12月4日(日曜)
会 場 : 町家歴史館 清学院   堺市堺区北旅籠町西1丁3-13 10時~17時
      町家歴史館 山口家住宅 堺市堺区錦之町東1丁2-31   10時~17時
      堺市博物館        堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁大仙公園内
  9時30分~17時15分
料 金 : 清学院 100円(65歳以上の方、障害のある方、中学生以下無料)
      山口家住宅 200円(65歳以上の方、障害のある方、中学生以下無料)
      堺市博物館 一般200円 高大生100円 中高生50円
 (65歳以上の方、障害のある方無料)

007 河口慧海(かわぐち えかい・1866年~1945年)の生誕150年となる本年、生誕の地である堺で、慧海の人と事績、ひいては慧海を生んだ堺の地に焦点をあてた記念事業を開催します。
 慶応2年(1866年)、堺山伏町(現在の堺区北旅籠町西3丁)に生まれた河口慧海は、仏教の原典を求めて日本人で初めてヒマラヤを越えて当時鎖国下のチベットに入った人物として知られています。帰国後刊行された『チベット旅行記』は、仏教学者だけではなく、民族学者、探検家にも高く評価され、英訳も出版されました。
 展示は、「慧海と堺展」と題して、10月26日(水曜)から12月4日(日曜)まで、清学院・山口家住宅・堺市博物館で行われます。主な展示品は、チベット探検時の日記や愛用の辞書、慧海の求めに応じて近代彫刻史の巨匠 高村光雲が制作した「釈迦牟尼(しゃかむに)仏像」、慧海を生涯支えた堺の親友 肥下徳十郎(ひげ とくじゅうろう)宅に伝わった「くり抜き日記帳」などです。
 講演会・シンポジウムと合わせて、河口慧海と慧海を生んだ堺を身近に感じていただければと思います。

関連行事

講演            奥山直司氏(高野山大学教授)・高山龍三氏
パネルディスカッション 奥山直司氏、高山龍三氏、吉川和子氏

平成28年11月3日(木曜・祝日) 午後1時30分~午後3時30分
会場 さかい利晶の杜(堺区宿院町西2丁1番1号)

光雲作の「釈迦牟尼仏」は、堺市博物館さんでの公開だそうです。

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日本人で初めてチベットに入った僧侶・河口慧海は、高村家の近くに住んでいた時期もあり、光雲や光太郎と交流がありました。

光雲は今回展示される「釈迦牟尼仏」や「大黒天像」などを慧海の求めに応じて制作。同様の仏像は仙台の福島美術館さんにも収蔵されています。

光太郎も戦時中に慧海自身の坐像の制作に携わりました。ただしこちらは作品の現存が確認できていません。おそらく昭和20年(1945)の空襲で焼失したと考えられます。


さて、ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

あらためてわがあなうらを見にければ蓮のうてなもなにもなかりきうたもなかりき

昭和23年(1948) 光太郎66歳

古代インドでは、仏像を作る習慣はありませんでした。西方のヘレニズム文化の影響を受け、いわゆるガンダーラ地方あたりで初めて仏像が作られる紀元前2世紀頃まで、仏教では仏像の代わりに法輪や菩提樹の木、そしてその足跡を石に刻んだ仏足石などによって、象徴的に釈迦信仰が行われていました。

仏足石の中には、「足下二輪相」というスタイルがあり、法輪をかたどった丸い紋様が刻まれているものがあり、その紋様は蓮の花にもよく似ています。この歌はそういった背景を持っています。

「あらためて自分のあなうら(足の裏)を見ても、蓮のうてな(台)も、何も無い。歌も無い。」といったところでしょうか。

ところでこの歌、『高村光太郎全集』では短歌の項に掲載されていますが、短歌ではありません。指折り数えてみると五・七・五・七・七・七と、七が一つ多いのです。この形式を「仏足石歌」と呼びます。オリジナルは奈良・薬師寺の仏足石歌碑。ここにこのスタイルの21首の歌が刻まれており、『古事記』、『万葉集』、『播磨国風土記』に類例が認められます。『高村光太郎全集』では、解題の部分に仏足石歌体である旨の記述が為されています。

こうした古歌の形式にも通じていたさしもの光太郎も、自分の足の裏を見てもお釈迦様のような蓮華紋はついていなかったようです(笑)。当方にもついていません(笑)。