日曜、月曜の新聞2紙に、光太郎と交流のあった人々が大きく取り上げられています。それぞれ光太郎、光雲にからめてご紹介下さっています。

まずは『読売新聞』さんの日曜版。巻頭2ページにわたる「名言巡礼」という連載があります。全国の美しい風景とともに、毎回一人の人物の残した言葉にスポットを当てる企画です。かつて光太郎や、光太郎と交流の深かった尾崎喜八も取り上げられました。

今回は、岡山県赤磐市で、永瀬清子。やはり光太郎と交流のあった女流詩人です。 

永遠に満たされぬ渇き 永瀬清子「あけがたにくる人よ」(1987年)

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その時あなたが来てくれればよかったのに
その時あなたは来てくれなかった(「あけがたにくる人よ」より)

 あけがたにくる人よ
 ててっぽっぽうの声のする方から
 私の所へしずかにしずかにくる人よ

 詩人・永瀬清子の代表作「あけがたにくる人よ」は、そう始まる。山鳩(やまばと)がくぐもった声で鳴く薄明の時間に、かつて約束の場所に来なかった恋の相手が現れるという。

 その時あなたが来てくれればよかったのに
 その時あなたは来てくれなかった

 どんなに待ったことか。何もかも遅すぎ、自分は老いてしまった。苦い恋の記憶と喪失感が心にしみる。
 詩人の井坂洋子さん(66)は、「永瀬さんは私に欠けているものを全部持っている」と言う。1987年は俵万智さんの歌集「サラダ記念日」が刊行された年。井坂さんや伊藤比呂美さんら女性詩人の若い感性にも注目が集まっていた。清子は地方の片隅にいて、女としての苦闘と実感を詩に紡いだ。81歳だった。

 清子は現在の岡山県赤磐(あかいわ)市に生まれ、明治から平成までの長い波乱の時代を、妻として母として生き抜いた。東京で詩作が評価され、三好達治や高村光太郎らと交流もあったが、戦後は故郷で農業をしながら詩を書き続ける。平和を訴える社会活動に参加し、瀬戸内の島にあるハンセン病療養所で詩の指導もした。
 少女の頃から、家や社会に縛られているのを感じていた。詩を書くのは「本当の自分を誰かに知ってもらいたいからだ」と言っていた。「詩は宇宙への恋である」とも。欠乏感が原動力だった。「老いもその一つ」と井坂さんは考える。晩年、「やり尽くした気がしない」と本人も語っている。だから、老いをうたった詩も湿っぽくない。年を重ねるにつれ、清子の詩に励まされるという。「今こそ読んでほしい詩人です」
 欠乏と望みは裏腹だろう。詩「古い狐(きつね)のうた」には「あの時の祈り あの時ののぞみ/私のすべての値打(ねうち)の中味なのかもしれないのです」と記す。永遠に満たされぬ少女の渇きのまま、清子は89歳の誕生日のあけがた、静かに息を引き取る。(文・松本由佳 写真・林陽一)

上記は1ページ目。2頁めは画像でご覧下さい。クリックで拡大します。

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先日ご紹介した、赤磐市くまやまふれあいセンターで開催中の「宮沢賢治のほとりで-永瀬清子が貰った「雨ニモマケズ」」展にからめ、宮沢賢治との関係が紹介されています。永瀬自身は生前の賢治との面識はなかったはずですが、賢治顕彰に骨を折った光太郎、草野心平らの影響もあって、賢治の魂に感化されたようです。

このブログで何度かご紹介した、昭和9年(1934)、賢治追悼会の席上で「雨ニモマケズ」が書かれた手帳が見つかったエピソード(その場に永瀬や光太郎、心平もいました)が取り上げられています。

また、永瀬の故郷・岡山県赤磐市の紹介。当方も一度足を運びましたが、実にいいところです。ある意味「日本の原風景」のような。

永瀬清子、もっともっと世に知られていい詩人だと思います。


もう1件、月曜日の『日本経済新聞』さんに取り上げられた彫刻家・細谷而楽についてご紹介しようと思っておりましたが、長くなりますのでまた明日。このブログ、あまり執筆に時間がかかると、アップロードの際にエラーが出ます。


【折々の歌と句・光太郎】

ひとむきにむしやぶりつきて為事(しごと)するわれをさびしと思ふな智恵子

大正13年(1924) 光太郎42歳

10/5は智恵子の命日「レモンの日」です。それが近づいてきましたので、しばらく智恵子を謳った短歌をご紹介していきます。

昭和16年(1941)刊行の詩集『智恵子抄』には、巻末近くに「うた六首」として、この歌を含む六首の短歌が掲載されています。この歌はその冒頭に置かれています。

大正13年(1924)、光太郎は彫刻に、文筆に、脂の乗っていた時期です。「為事(しごと)」は、そうした芸術精進を指すとするのが一般的な解釈ですが、全く違った解釈で、性行為を謳っているという読み方もあります。そう考えると非常に生々しいのですが、『智恵子抄』にはずばり「淫心」という詩もあり、あながち的外れともいえないような気もします。