昨日から今日にかけ、「賢治祭パート2 《追悼と感謝をこめて》」出席のため、岩手花巻に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。
賢治祭が夕方4時からということなので、少しゆっくりめに千葉の自宅兼事務所を出ました。10時36分東京発の東北新幹線やまびこ号に乗って、午後2時過ぎに花巻に着く予定でした。ところが、東京駅までの高速バスが予定よりだいぶ早く着き、9時40分発の同じくやまびこ号に間に合ってしまいました。自由席ですので手続きも必要なく、そのまま乗車。最近は急ぐ場合を除いて、全席指定のはやぶさ号などは利用しません。こういう場合にいちいち窓口に行かなくて済むので楽ですね。
そういうわけで、やはり1時間早く午後1時過ぎには花巻に着きました。そこで、天気もいいし、ぶらぶら散歩。市役所近くの鳥谷崎(とやがさき)神社を目指しました。何度か足を運んだことはありますが、ここ数年、行っていないので、ひさしぶりに、と思いました。
市役所近くの花城小学校跡。賢治の母校だそうです。普段、花巻に行っても賢治関連は撮影したりしませんでしたが、今回は賢治祭に参加ということで、やはり気になりました。
この一角は元の花巻城跡地にも当たります。当時の城門も健在。
鳥谷崎神社は、城跡のはずれに鎮座ましましています。戦国時代にはすでにここにあったという古社です。
秋らしく、萩の花が咲いていました。
そうかと思えば、日陰にはまだ紫陽花も。驚きました。
社殿がこちら。
こうした場合の常ですが、この地の鎮護と道中安全を祈願して参りました。
この神社は、光太郎、賢治双方に関わります。
まず、光太郎。
昭和20年(1945)4月、空襲で東京駒込林町のアトリエが全焼。一時は近所にあった実妹の婚家に身を寄せますが、そこも被災者で手狭となり、宮沢家の招きで、5月には光太郎が来花(そのために東京を発った5月15日を記念して、毎年、花巻高村祭が開催されています)、宮沢家に厄介になります。
その宮沢家も8月10日の花巻空襲で全焼。光太郎は元旧制花巻中学校長、佐藤昌(さかり)宅に一時的に避難しました。佐藤宅は鳥谷崎神社近くで、終戦の玉音放送は、ここ、鳥谷崎神社の社務所で聴きました。その際に作られた詩が、「一億の号泣」で、17日に『朝日新聞』と『岩手日報』に掲載されました。
一億の号泣
綸言一たび出でて一億号泣す
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎(とやがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ来(きた)る
玉音(ぎよくいん)の低きとどろきに五体をうたる
五体わななきてとどめあへず
玉音ひびき終りて又音なし
この時無声の号泣国土に起り
普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る
微臣恐惶ほとんど失語す
ただ眼(まなこ)を凝らしてこの事実に直接し
荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさざらん
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのずから強からんとす
真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎(とやがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ来(きた)る
玉音(ぎよくいん)の低きとどろきに五体をうたる
五体わななきてとどめあへず
玉音ひびき終りて又音なし
この時無声の号泣国土に起り
普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る
微臣恐惶ほとんど失語す
ただ眼(まなこ)を凝らしてこの事実に直接し
荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさざらん
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのずから強からんとす
真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん
画像は鳥谷崎神社の古絵葉書です。
戦時中、大量の翼賛詩を書き殴っていた光太郎、この時点でもまだ「鋼鉄の武器を失へる時/精神の武器おのずから強からんとす」と、その延長線上の詩を書いています。そのため、後にはこの詩は光太郎の内部では戦時中の翼賛詩同様、封印した詩でした。
光太郎没後の昭和35年(1960)、当時の花巻観光協会がこの詩の光太郎自筆揮毫を石に刻み、ここ、鳥谷崎神社に建立しました。いろいろ行き違いがあったようで、存命だった光太郎の実弟・豊周、当会の祖・草野心平、当会顧問・北川太一先生ら、当時の高村記念会が抗議、いったんはこの碑は撤去されました。
ところがいつのまにか再度建立され、現在に至っています。そのため、説明板も付されていません。
いわば光太郎の負の遺産です。こうした作品は隠蔽してはいけないと思いますが、たしかに碑に刻んでまで残すものではないような気もします。しかし、負の遺産は負の遺産として、継承すべきでしょう。
続いて賢治。
こちらは平成4年(1992)に建立された歌碑。賢治の絶筆といわれる短歌で、鳥谷崎神社例大祭(花巻祭り)を謳っています。
高台にあるこの鳥谷崎神社からの眺めを、賢治が愛したという話も聞いたことがあります。
光太郎賢治に思いを馳せつつ、ふたたび歩いて花巻駅方面へ戻りました。
続いて訪れたのは、駅近くの林風舎さん。賢治の実弟、清六の令孫・和樹氏がオーナーの、賢治グッズのお店です。こちらも数年ぶりにお邪魔しました。
1階から2階への階段に、昭和11年(1936)、光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑の拓本が掲げられています。
すでに誤字脱字の追刻がされているので、戦後の採拓です。
さらに駅前の観光案内所さんに寄りました。こちらでは、花巻市さんで発行している無料のタウン誌『花日和』の秋号をゲット。表紙が郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋・高村山荘です。
それから光太郎がたびたび泊まった鉛温泉藤三旅館さんの紹介記事も。
今回の宿は、駅前のかほる旅館さんという商人宿でした。そちらに荷物を預け、いざ、賢治祭。そちらはまた明日、ご紹介します。
【折々の歌と句・光太郎】
光太郎山にすまひてはるかなるフオンテンブロオの森しのびゐる
昭和24年(1949) 光太郎67歳
「フオンテンブロオ」はパリ郊外。現代では「フォンテーヌブロー」と表記します。かつての仏王朝の狩猟地で、広大な森林が保全されており、花巻郊外太田村の自然から、若き日に訪れた彼の地を連想したということですね。