東京駅構内にある東京ステーションギャラリーさんで、今日から始まった企画展です。光太郎の油絵2点が展示されています。
会 場 : 東京ステーションギャラリー 東京都千代田区丸の内1-9-1
時 間 : 10:00 - 18:00 (金曜日 10:00 - 20:00)
料 金 : 一般1000(800)円 高校・大学生800(600)円 中学生以下無料
       ( )内は20名以上の団体料金
        障がい者手帳等持参の方は100円引き(介添者1名は無料)
休館日 : 月曜日(9月19日、10月10日は開館)、9月20日、10月11日

青年画家達の活動を裏方から支え、明治から大正にかけて洋画界の発展に寄与した、北山清太郎(和歌山県出身/1888-1945)。彼は、ゴッホらを支援したペール・タンギーになぞらえ、ペール北山と呼ばれていました。本展は、彼の活動を手掛かりとして、大正期の西洋美術に対する熱狂、そしてその影響を受けて展開した、前衛的な近代日本美術の動向を同時に紹介します。大正の洋画青年たちの心意気によって誕生した絵画と、あこがれの西洋の絵画等を中心に、約130点の作品と、貴重な資料をご紹介します。

プロローグ 動き出す「洋画」 ——北山清太郎と『みづゑ』の時代
第1章 動き出す夢 ―ペール北山と欧州洋画熱
 ロダン、ドガ、セザンヌ、ピサロ、モネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーギャン、ピカソほか
第2章 動き出す時代 ―新帰朝者たちの活躍と大正の萌芽
 藤島武二、南薫造、湯浅一郎、津田青楓、山脇信徳、中村彝、坂本繁二郎、浜田葆光ほか
第3章 動き出す絵画 ―ペール北山とフュウザン会、生活社
 岸田劉生、木村荘八、斎藤与里、高村光太郎、萬鉄五郎、川上凉花、北山清太郎ほか
第4章 動き出した先に ―巽画会から草土社へ
 岸田劉生、木村荘八、高須光治、横堀角次郎、椿貞雄、中川一政、河野通勢ほか
エピローグ 動き出す絵 ―北山清太郎と日本アニメーションの誕生

関連行事 すべて無料(要別途入館料)

オープニング ギャラリートーク 
 講師 宮本久宣・青木加苗(和歌山県立近代美術館)、岡本正康(下関市立美術館)、
     田中晴子(当館)
 9月17日(土) 10:00~(約60分)/3階展示室集合 込不要

東京駅周辺美術館との連携 特別ギャラリートーク「印象派と大正期の日本」 
 10月22日(土) 9:30~(約60分) 込 事前申込制。9月17日以降 03-3212-2485
  員25名(先着順)

ギャラリートーク(学芸員による展覧会解説)
 10月7日(金)、10月27日(木) 13:00~(約30分) 込不要

レンガ・タッチ&トーク(煉瓦が特徴的な当館のたてもの解説)
 10月14日(金)、28日(金)   各日15:00~(約30分) 込不要

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光太郎油絵作品は、「上高地風景」(大正2年=1913)、「佐藤春夫像」(大正3年=1914)の2点。期間中、一部作品の展示替えがあるそうですが、この2点はその対象外だそうです。

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北山清太郎は、光太郎が関わった絵画団体・ヒユウザン会(のちフユウザン会)、生活社も支援し、同人たちから尊崇されていました。

光太郎曰く、

特筆すべきは「現代の美術」と言ふ美術雑誌を主宰してゐた北山清太郎氏で、われわれの仲間ではペエル タンギイで通つてゐた。あらゆる意味から、この人ぐらゐ熱心に当時の美術界に尽力した人はないであらう。
(「ヒウザン会とパンの会」 昭和11年=1936)

フユウザン会は二年でつぶれ、更に私達は生活社を結んで進んだ。当時日本のタンギイ北山清太郎君が居ていろいろ世話してくれたので一九一三年には神田のヴヰナス倶楽部で岸田、木村、私などの展覧会を開いた。(「岸田劉生の死」 昭和4年=1929)

ということでした。

神田のヴヰナス倶楽部で開いた展覧会というのが、生活社展。上記の「上高地風景」はこの際に出品されたもので、この年の夏、智恵子との婚前旅行で一ヶ月を過ごした信州上高地での作です。

「佐藤春夫像」は、直接、北山とは関わらないようですが、北山と佐藤が同郷という縁はあります。佐藤はこの絵を描いてもらったことから光太郎と親しくなり、光太郎最晩年の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」建立に尽力します。


光太郎の油絵は、常時見られるものではありません(真っ赤な偽物を「光太郎筆」として展示しているらしい私設美術館があるようですが)。また、光太郎と縁の深かった人々の作品が目白押し。ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

新米のかをり鉋のよく研げて       昭和20年(1945) 光太郎63歳

当方自宅兼事務所のある千葉県北東部は早場米の産地です。既に8月末には刈り入れをするところが多く、妻の血縁の方から宅配便で30㌔の新米が届きました。ありがたや。

「鉋」(かんな)は、この年の秋、花巻郊外太田村の山小屋に移り住み、内部の造作などの大工仕事も自ら行ったことに関わります。「今朝村人につきたての新米を恵まる」の詞書きが添えられています。

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