一昨日の『日本経済新聞』さんの夕刊で、当会の祖・草野心平が大きく取り上げられました。
文学周遊 「草野心平詩集」 福島・いわき市・川内村
「ぎやわろっぎやわろっぎやわろろろろりっ……」
7月9日。福島県川内村の体育館に、詩誌「歴程」関係者と村民らの朗読の声が響いた。第51回の「天山(てんざん)祭り」だ。「蛙(かえる)の詩人」と呼ばれた同県いわき市小川町出身の草野心平は1960年、北隣の名誉村民となる。新聞で「モリアオガエルの生息地」を問うた心平の文を読んだ長福寺の住職が平伏(へぶす)沼へ来るよう手紙を書き、53年に初訪問。以来、毎年のように村民と交流を重ねて始まった。
祭りは例年、心平のために造った茅葺(かやぶ)き屋根の「天山文庫」で開かれるが、この日は雨で体育館が会場に。イワナの塩焼きや山菜を肴(さかな)に、心平の詩や村の伝統芸能を、村人・同人らと楽しんだ。
一時は原発事故で全村避難となった村では、震災の年も祭りを敢行。震災後、愛唱された宮沢賢治の詩・作品を世に広めたのも心平だ。心平らが創刊した歴程の存在は大きいが、「藤村(とうそん)記念歴程賞」の昨年の受賞者は「川内村村民」だった。生徒数が激減した川内小6年生5人の朗読が胸を打つ。「虫がないてるね/ああ虫がないてるね/もうすぐ土の中だね/土の中はいやだね……」(詩集「第百階級」の「秋の夜の会話」)
なぜ蛙なのか。幼時から癇(かん)の強かった心平は鉛筆や人に噛みついた。磐城中では放校寸前となって中退。東京にもなじめず「どっか海の外へでも行ってみたいという願望が私のなかにめざめてきた」(「わが青春の記」)という。
中国の嶺南大学へ入学。寄宿舎で亡兄・民平が詩・短歌を書いたノートを読み、詩作に没入する。「私は広州での学生時代から蛙に関する詩を書きだしたが、その蛙は校庭の沼地にいた牛蛙たちではなく、上小川の稲田で鳴いていた蛙たちだった」(「望郷」)
孫文やタゴール、高村光太郎ら、国内外で広い人脈を持つ。詩境も「富士山」「天」など宇宙的な「天の詩人」でもあった。一方、生活は困窮を極め、貸本屋、焼鳥屋など波乱の人生を送る。いわき市名誉市民になったのは84年。小川町山腹に98年、市立草野心平記念文学館(粟津則雄館長)が誕生した。
磐越東線・小川郷駅近くに心平の生家、墓がある。田では稲穂がそよぎ、蛙が跳ね回り、シマヘビも泳ぐ。蛙はじっとこちらを観察していた。
(編集委員 嶋沢裕志)
くさの・しんぺい(1903~88) 福島県いわき市生まれ。19年磐城中学(現磐城高校)を4年で中退し上京。慶応義塾普通部に編入学するが、半年で中退。英語・中国語を学び、21年中国・広州へ渡り、嶺南大学(現中山大学)に入学。
25年排日運動の激化で卒業前に帰国。27年「第百階級」を同人誌に発表。郷里で農業、前橋で新聞社校正係、東京で焼鳥屋、新聞記者など職業を転々とし、35年に高橋新吉、中原中也ら8人で詩誌「歴程」(宮沢賢治も物故同人に)発刊。中国で現地召集され、戦後は故郷で貸本屋「天山」、東京で居酒屋「火の車」などを営業。50年一連の「蛙の詩」で第1回読売文学賞受賞。87年文化勲章を受章。
(作品の引用は岩波文庫)
先月、川内村で行われた第51回天山祭の様子から始まり、川内村として藤村記念歴程賞を受賞した件、心平の人となり、光太郎との関わり、いわき市の草野心平記念文学館、生家などの紹介となっています。
先の話になりますが、11月13日(日)、いわき市の心平生家で没後29回忌「心平忌」・第23回「心平を語る会」が計画されており、当方が記念講演をすることになっています。題して「草野心平と高村光太郎 魂の交流」。また近くなりましたら詳細をご紹介いたします。
【折々の歌と句・光太郎】
繭は蛾に卵は鳥に芽は花に人は生まれて罪の館(やかた)に
明治43年(1910) 光太郎28歳