勘違いしていて見逃してしまいましたが、昨日、BS-TBSさんで放映されている「校歌を訪ねて」という番組で、女川町の女川中学校さんが取り上げられました。この番組は、東日本大震災からの復興に向けて頑張る東北の小中学校の校歌を紹介する5分間番組です。

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紹介にあるとおり、同校の卒業生の皆さんが、このブログでたびたびご紹介してきた「いのちの石碑」建立に携わっています。同じ女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクトです。

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今月には、同町離島の江島など3地区に新たに碑が建ちました。報道各紙から。

まずは『河北新報』さん、先週の一面コラム。 

河北春秋 (2016.8.21)

<大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください>。そう刻まれた石碑が宮城県女川町に12基立つ。女川中を2014年3月に卒業した高校3年生たちが、中学時代から建立している。最終的に21基まで増やす計画だ。このほど、やっと折り返し点を迎えた▼「女川いのちの石碑」と呼ばれる。発端は東日本大震災から1カ月後、中学1年の社会科の授業。「古里のために何ができるか考えてみよう」。先生の問い掛けに生徒たちが応じた。「津波の被害をなくす方法を考えたい」「石碑を建てよう」▼女川町は震災で巨大津波に襲われ、人口の8%に当たる約830人が死亡・行方不明になった。生徒にとって一人一人の命こそ尊いものだった。「一人の命もなくさないでほしい」との願いを込め、津波到達点近くに石碑を設置する。合言葉は「1000年後の命を守るために」▼活動に参加する仙台市の常盤木学園高3年の神田七海さん(18)は、大好きだった祖父を津波で亡くした。祖父は津波から逃げない人の家に行っては連れだし、3度目に戻った際、流された。「どうすればいいの?」。話し合いの場で涙ながらに訴えた▼<逃げない人がいても、無理やりにでも連れ出してください>。碑には生徒たちの切実な思いが刻まれている。


同じく『河北新報』さん。 

<震災5年5カ月>津波の記憶刻む石碑3基

005 東日本大震災の教訓を後世に伝えようと活動する宮城県女川町女川中の卒業生グループが、津波到達点を知らせる「女川いのちの石碑」の除幕式を11日、同町の離島・江島など町内3カ所で行った。町内の浜21カ所に建立を目指す石碑はこれで12基となり半数を超えた。
 グループは2014年3月の卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」。江島には高校3年生のメンバー9人が渡り、住民らと除幕した。
 石碑は島の北側、集落への入り口の高台に設置。生徒が「この石碑より上へ逃げてください」などと刻まれた碑文を読み上げた。石碑には<うらんでもうらみきれない青い海>の句が碑文と共に彫られている。
 江島の小山盛雄区長(75)は「震災を経験した私たちは震災を風化させず、後世に残るようみんなで協力していく」と述べた。
 島民に震災時の話を聞くなど交流した石巻高3年木村圭さん(17)は「島では津波への意識が高く、島民の絆も強く、命を落とす人がいなかった。学ぶことが多かった」と話した。


系列紙の『石巻かほく』さん。 

「震災教訓後世に」 女川中卒業生、いのちの石碑除幕 12基に

006 東日本大震災の教訓を後世に伝えようと活動する女川町女川中の卒業生グループが11日、津波到達点を知らせる「女川いのちの石碑」の除幕式を離島・江島など町内3カ所で行った。町内の浜21カ所に建立を目指す石碑は、これで12基と半数を超えた。
 自然災害から命を守る対策などをまとめた「女川いのちの教科書」の報告会も開き、生徒たちは「日本、世界に教訓や命の大切さを伝えたい」と訴えた。
 グループは2014年3月の卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」。現在、高校3年生の約15人が中学時代からの活動を続ける。
 江島にはメンバー9人が渡り、住民らと除幕した。石碑は島の北側、集落への入り口の高台に設置。生徒が「この石碑より上へ逃げてください」などと刻まれた碑文を読み上げた。
 江島の小山盛雄区長(74)は「震災を経験した私たちは震災を風化させず、後世に残るようみんなで協力していく」と述べた。
 生徒たちは島民から震災時の話を聞くなどして交流した。小山区長は「津波はじわじわと高くなり、石碑を建立したここで約9.2メートル。昔の地震の教訓から、島の約4倍の津波が本土を襲う。心配だった」などと説明した。実際、町の中心部は34メートルの津波が観測され、町は最大で43メートルの巨大な津波に襲われた。
 江島は女川港から約14キロ。小山さんによると、江島では住宅は高台にあり、津波による被害は少なく、犠牲者もいなかった。住民は3日間孤立したが、ヘリコプターで救助されたという。震災時に約80人いた島民は約30人に減った。
 生徒たちは同日、町内の高白浜、指浜の両地区でも石碑の除幕式を行った。

<「いのちの教科書」作り報告>
 「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーは11日夜、東日本大震災の体験や教訓を記した「女川いのちの教科書」作りの報告会を開き、「一人でも多くの命を守りたいとの思いを込めた」と発表。
 未完成だが、内容を詰め、中学生向けの副読本として来春の完成と出版を目指す。
 「いのちの教科書」は84ページを想定。社会科として女川町の津波被害や津波対策案、理科として地震・津波のメカニズム、道徳として震災の記録など計8項目を盛り込んだ。
 生徒たちは「1000年後の命を守るために」を合言葉に活動してきた。その対策として(1)絆を強める (2)高台に避難できるまちづくり (3)震災の記録を残す- の三つを提示。「中学生が小学校の放課後クラブを運営する」「太陽光パネルを活用した避難誘導灯と高台への避難路を整備する」など具体的な実践例を示し、自分たちの考えを記した。
 「記録を残す」ため、「いのちの石碑」の活動などを紹介したほか、道徳編として生徒たちの震災体験に多くのページを割いた。
 守る会会長の石巻好文館高3年阿部由季さん(18)は「命を守る対策について教科書から学んでもらえればうれしい」と話す。
 出版はまだ具体化しておらず、生徒たちを中学時代から見守る東松島市矢本二中の阿部一彦教頭(50)は「メンバーが高校を卒業するまで形にしてあげたい」と協力を呼び掛けている。


『毎日新聞』さんの宮城版。 

経験、語り継ぐ 女川中卒業生たち、石碑除幕式 離島・江島などで、設置目標折り返し /宮城

007 東日本大震災の教訓を未来に伝えようと活動する、女川町立女川中を卒業した高校3年生たち「女川1000年後の命を守る会」は11日、同町の離島・江島(えのしま)など3地区で津波の到達地点に建てた「女川いのちの石碑」の除幕式を開き、地元住民と経験を語り継ぐ決意を共有した。この日で石碑設置は計12基となり、町内全21地区の設置目標は折り返しに。防災の知識や教訓を伝える「女川いのちの教科書」の中間発表会も行い、来春の完成を目指して「命を守る大切さを世界に伝えたいので協力してほしい」と呼びかけた。
 女川港から定期船で約30分の江島。エメラルドグリーンに輝く海を眼下に見る高台で石碑の除幕式が開かれ、高校生9人がそれぞれ地区住民から話を聞いた。「津波は一気にではなくじわじわ高くなり、引き波が強かった。電気も水道も止まって孤立したが、上空を飛ぶヘリが気づいてくれず、防波堤に『SOS』と書いて救助を待った」。高校生たちは小山盛雄区長(74)が語る震災直後の話に真剣に耳を傾けた。
 江島は震災で約9・2メートルの津波に見舞われたが、島民はすぐに避難して無事で、発生3日後に全島避難。津波による家屋の被害はなかったが、余震で倒壊する被害が出て、約50世帯80人いた島民は約25世帯30人に減少したという。鈴木元哉さん(17)は「同じ女川でも本土と島、海と山で違い、問題は一つではないと感じた。人の多さや高齢者の数で避難の仕方も違うことが分かり、教科書づくりにも生かしたい」とかみしめていた。
 また、世代を超えて震災の経験を伝えていこうと、生徒たちが高校生になってから本格的に取り組む教科書づくりの中間発表会を開催。支援を受ける防災士らに向け、自分の経験や聞き取りした内容をまとめた教科書の途中経過を報告し、理解と協力を求めた。守る会会長の阿部由季さん(18)は「たくさんの人の協力があり、教科書はほぼ完成に近づいた。中高生たちに読んでもらいたいので、いざという時に行動できる内容や私たちの体験談を増やしたい」と話した。【百武信幸】
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巨大防潮堤の建設という選択をしなかった女川町。その代わり、海の近くには居住スペースは作らず、大地震の際にはとにかく高台に逃げる、という方針を掲げています。

その方針を端的に語るのが、右のポスター。女川駅に貼られていたものですが、「わたしたちは海と生きる。」の一言がドーンと記されています。

平成25年(2013)にNHKさんで放映された連続テレビ小説「あまちゃん」で、主人公アキの祖母、宮本信子さん演じる「夏ばっぱ」が、震災後のシーンで、孫のアキ(能年玲奈さん)に向かって次のセリフを放ちました。

「海が荒れて大騒ぎしたのは今度が初めてではねぇ」
「おまんま食わせてくれた海が、1回や2回へそを曲げたからってよそで暮らすべぇと、おら、はなっからそんな気持ちで生きてねぇど」
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まさにそういうことなのでしょう。

「いのちの石碑」プロジェクト。息の長い取り組みになるかと存じますが、見守っていきたいと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

少(ちさ)きは老い老いしは朽ちて海の芥埃(あくた)よする東の岸べに立てり

明治35年(1905) 光太郎20歳

そういうわけで、海にちなんだ短歌です。