今週火曜の青森の地方紙『デーリー東北』さんの一面コラム「天鐘」。光太郎智恵子に触れて下さいました。
天鐘(8月2日)
1970年代の東京で学生時代を過ごした。高度経済成長の恩恵と引き替えにスモッグが空一面を覆い、目に染みた。高村光太郎の『智恵子抄』同様「東京には空がない」と思った▼あの頃、東京は日本の縮図であり、地方はその大都会に憧れ、模倣した。東京は日本を代表する夢のモデル都市であった。都政の変遷をたどれば戦後わが国の政治や経済、社会がまるで手に取るように分かる▼初代都知事の安井誠一郎氏は戦後の復興、2代東龍太郎氏は東京五輪に向け、首都高などインフラ整備に尽力。3代美濃部亮吉氏は成長の裏に隠された公害問題と闘った▼4代鈴木俊一氏は財政再建、5代青島幸男氏は都市博の中止、6代石原慎太郎氏はディーゼル車の規制、7代猪瀬直樹氏は東京五輪招致を果たしたが、政治とカネで沈没。8代舛添要一氏は承知の通りである▼復興から成長、産業発展と公害、財政逼迫に再建と一定の因果で動いてきた。続く初の女性都知事、小池百合子氏は「見たこともない都政」を宣言。崖から飛び降りた度胸の持ち主が何を見せるのか、期待したい▼往時は東京が始めると地方がすぐ真似た。そんな一例に「歩行者天国」がある。46年前の今日、銀座や新宿などで始まった。当時の美濃部知事が「東京に青空を」とスモッグの元凶である車を締め出した。9代小池氏が期待を乞う都政とは―地方も大いに注目である。
当方も記者の方と同じく1970年代、東京に住んでおりました。といっても幼稚園・小学校低学年の頃で、まだ「高村光太郎」の名は知りませんでした。確かに当時は「光化学スモッグ注意報」あるいは「警報」が頻繁に出、そういう時は決まって深呼吸すると気管が痛いと感じたものです。
その反面、当時住んでいたのは都下多摩地区で、まだ宅地化はそれほど進んでおらず、田んぼにはドジョウやタニシやザリガニ、森にはミヤマクワガタという状況で、今考えるとアンバランスでした。PCのストリートビューで住んでいたあたりを見ても、もはや別の町のようになってしまっています。
ただ、「スモッグ」という単語がもはや死語となりつつあるのは、いいことだと思います。
光太郎は東京生まれの東京育ち。元々先祖は鳥取藩士だったそうですが、曾祖父で幕末文久年間に亡くなった富五郎は八丁堀の鰻屋、祖父の兼吉は浅草の露天商、そして父・光雲は仏師と、絵に描いたような庶民階級、いわゆる「江戸っ子」でした。
昭和20年の空襲で駒込林町のアトリエを焼かれるまで、海外留学の期間を除いて、光太郎は東京以外に居住したことはありませんでした。それが疎開のため移った岩手で足かけ8年を過ごすうち、清冽な自然の中での生活にすっかりはまり、戦後のある種むちゃくちゃな復興をする東京を毛嫌いするようになりました。
下記は、昭和27年(1952)の『週刊朝日』に載った、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、8年ぶりに上京した光太郎へのインタビュー「おろかなる都 光太郎東京を叱る」です。
同じ昭和27年(1952)には、こんな詩も作っています。
報告
あなたのきらひな東京へ
山からこんど来てみると
生れ故郷の東京が
文化のがらくたに埋もれて
足のふみ場もないやうです。
ひと皮かぶせたアスフアルトに
無用のタキシが充満して
人は南にゆかうとすると
結局北にゆかされます。
空には爆音、
地にはラウドスピーカー。
鼓膜を鋼で張りつめて
意志のない不生産的生きものが
他国のチリンチリン的敗物を
がつがつ食べて得意です。
あなたのきらひな東京が
わたくしもきらひになりました。
仕事が出来たらすぐ山へ帰りませう、
あの清潔なモラルの天地で
も一度新鮮無比なあなたに会ひませう。
山からこんど来てみると
生れ故郷の東京が
文化のがらくたに埋もれて
足のふみ場もないやうです。
ひと皮かぶせたアスフアルトに
無用のタキシが充満して
人は南にゆかうとすると
結局北にゆかされます。
空には爆音、
地にはラウドスピーカー。
鼓膜を鋼で張りつめて
意志のない不生産的生きものが
他国のチリンチリン的敗物を
がつがつ食べて得意です。
あなたのきらひな東京が
わたくしもきらひになりました。
仕事が出来たらすぐ山へ帰りませう、
あの清潔なモラルの天地で
も一度新鮮無比なあなたに会ひませう。
画像は岩手から上京した際に上野駅で撮られたショットです。「長靴で出て来るか」という感じですね(笑)。東京もなめられたものです。
しかし、光太郎、再びの東京暮らしをけっこう満喫していました。草野心平ら、ある種の「悪友」たちと飲み歩いたり食べ歩いたり、ストリップを観に行ったり……。東京に対する悪口雑言も、東京を愛するが故の箴言警句だったのかもしれません。
乙女の像完成後に、宣言通り一時的に岩手に帰りましたが、身体は結核でぼろぼろになっていたため、結局、設備の整った東京で療養せざるを得ず、亡くなったのも東京でした。
さて、「天鐘」にあるとおり、新都知事の誕生です。光太郎がもし現在の東京を見たら、「○○なる都」、どんな形容動詞を使うのでしょうか。
【折々の歌と句・光太郎】
じつとしてこれやこの木の朽つるまで木ぼりの蝉はあり経らんとすらん
大正13年(1924) 光太郎42歳