先週の『朝日新聞』さんの夕刊に、以下のコラムが載りました。

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(各駅停話)新御徒町駅 幻の高村光雲の大仏

 駅を出るとすぐ、65店舗が並ぶ「佐竹商店街」がある。1898年に組合組織のできた、日本で2番目に古い商店街という。
 あたりには江戸時代、大名の佐竹氏の屋敷があったが、明治時代に撤去されて原っぱになった。佐竹商店街振興組合の秋本邦雄理事長(73)によると、明治時代には、鎌倉の大仏より大きな大仏があったという。
 つくったのは、近所に住んでいた彫刻家、高村光雲(1852~1934)。光雲の懐古談に、原っぱに見せ物用の大仏をつくって中に客を入れる構想を冗談半分に口にしたところ、周囲が乗り気になり、実現したという話が出てくる。
 1880年代中ごろにできた大仏は高さ約15メートル。後に同じく光雲のつくった西郷隆盛像の建つ、東京・上野近辺からも眺めることができたらしい。しかし、完成した年、嵐で骨組みだけ残して吹き飛んでしまったという。
 こうした話は、商店街の酒井孝昌さん(82)が30年近く前、地元の歴史を残そうと掘り起こした。大仏があったと思われる場所に案内してもらうと、小学校になっていた。「大仏が、地域の歴史に目を向けるきっかけになればうれしい」と酒井さん。(石山英明)


場所は台東区台東4丁目、現在、平成小学校のある辺りで、記事にあるとおり、江戸時代には佐竹家の屋敷があったため、「佐竹っ原」といわれていた空き地でした。時は明治22年(1889)、光雲は数え38歳、岡倉天心に請われて東京美術学校に奉職した年です。この頃、佐竹っ原にはよしず張りの簡素な飲食店や見世物小屋などが立ち並んでいました。ところが、目玉になるようなものはなく、どうにもさびしい状態だったとのこと。

そこで光雲と職人仲間との雑談の中で、あそこに何か目玉になるものを作ろう、という話になりました。モニュメントとかオブジェというニュアンスではなく、見世物小屋の延長として、しかし、ただ小屋を建てるのでは芸がないから、小屋全体を展望台も兼ねた大仏の形にしてしまえ、というのが光雲の発案でした。

光雲は冗談半分だったのですが、仲間たちは乗り気になり、光雲にひな形を作れ、と迫ります。言い出しっぺの光雲としては断り切れず、どうせ実際に作るとなると無理だと言われるに決まっている、と思いながら二尺四寸のひな形を作りました。すると、案に相違して仲間たちには好評、専門の大工などに見せても、これなら出来る、とのことで、実現します。

これが佐竹っ原の大仏で、材料は丸太、板、竹、漆喰。つまりほとんど張りぼてです。光雲の異母兄で大工の中島巳之助や、仕事師と呼ばれる今で言う足場組立職人、芝居の大道具師、左官屋、興行師なども巻き込み、2ヶ月ほどで完成します。光雲も、大工たちの間に入って陣頭指揮したとのこと。

高さは四丈八尺(約14.5㍍)。内部は、さざえ堂を参考にした螺旋階段を設置、大仏の頭部が展望台を兼ねた部屋で、眼や耳に開けられた穴から街並みが見渡せる仕組み。胴の内部は仏像やら古布などを展示、さらにステージまで設けて踊りも披露するという凝った作りでした。

完成した五月には、大入りになりましたが、その後、梅雨と真夏の猛暑の時期には客足が落ち込み、秋口になって、さあ盛り返すぞ、というところで台風の直撃を受け、骨組みだけを残して壊れてしまったそうです。というわけで、わずか4ヶ月ほどの命だったこの大仏、残念ながら写真や絵図などの現存が確認できていません。

このあたり、昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』に詳しく記述があり、「青空文庫」さんで読むことができます。まだ日本彫刻界の頂点に上る前の壮年期の光雲。しょうもないといえばしょうもないこともやっていたわけですが、微笑ましいエピソードです。


お読み下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

なきかけ又なきなほすみんみんのあかるきかなや必死のうたは
大正13年(1924) 光太郎42歳