昭和6年(1931)、光太郎は新聞『時事新報』の依頼で、紀行文「三陸廻り」を書くため、8月9日から約1ヶ月、宮城から岩手の三陸海岸一帯を旅して廻りました。

その旅のはじめの頃に訪れたのが、、宮城県牡鹿郡女川町。

五 女川港(『時事新報』 1931/10/10掲載より抜粋)
 牡鹿半島のつけ根のぎゆつとくびれて取れ相な処、その外側の湾内に女川がある。船で廻ると一日がかりだが石巻からバスで行けば水産学校のある渡波(わたのは)を通りぬけ、塩田のある万石浦に沿つて二時間足らずの道程だ。朝七時に出ると九時には着く。女川で船を見つけるつもりで出かける。女川湾は水が深くて海が静かだ。多くの漁船が争つて此の足場のいい港へその獲物を水上げする。海岸には東北水産株式会社といふものが巨大な清潔な魚市場を築造して漁船を待つている。三陸沿岸では一番新らしい一番きれいな水上げ場だ。女川は極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている。活発な魚類の取引を見ていると今に釜石あたりをも凌ぐ様になるかも知れない気がする。ところで、海に面する此の新鮮きに対比して、町そのもののぼろの様な古さと小さきとには驚かされる。この古さは珍しい。魅力は此の新古均等の無いところにある。

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これを記念して、平成3年(1991)に、「高村光太郎文学碑」4基が、女川港に建てられました。中心になったのは「女川光太郎の会」さん。町内外からの募金で、当時おそらく日本一という規模の文学碑を建立。

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さらに、翌年からは毎年8月9日に、「女川光太郎祭」が、その碑の前で開催されました。毎年、当会顧問の北川太一先生のご講演が盛り込まれていました。

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やがて平成23年(2011)3月11日、東日本大震災が発生。女川は最大17メートル以上の津波に襲われ、中心街は壊滅、住民の1割近くが亡くなりました。その中には、文学碑の建立や光太郎祭の開催に尽力していた、女川光太郎の会事務局長・貝(佐々木)廣さんも含まれていました。震災直後、東北地方沿岸が激甚な被害に見舞われたということで、仲間うちで貝氏の消息について情報収集に努めましたが、なかなか消息がわかりませんでした。一度はネット上で避難所に入った方のリスト(手書きコピーのPDFファイル)にお名前を見つけ、安心したのですが、よく見るとお名前の上にうっすら横線。単なる汚れなのか、それとも抹消されたということなのか、前者であって欲しいという願いも虚しく、やがて津波に呑み込まれたという報が届きました。それでもまだどこかでひょっこり生き延びていられるのではと、一縷の望みを持っていましたが、さらに、ご遺体発見の報……。ショックでした……。

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さらに4基あった文学碑のうちの2基は津波で流失、残る2基も再建のめどはまだ立っていないようです。

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震災の年の8月、例年届いていた案内状も来ず、「もはや光太郎祭どころではないのだろう」と思っていました。しかし、あにはからんや、会場こそ女川第一小学校に移ったものの、しっかりと第20回女川・光太郎祭が開催されたとのこと。人間の持つ、逆境に屈しないパワーを改めて感じました。 

震災に負けず光太郎祭

『河北新報』 2011/8/10
 女川町を訪れた彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第20回「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、女川一小で開かれた。「文学でまちを元気にしよう」と企画を発案し、事務作業を一手に引き受けてきた会事務局の貝広さん(64)=同町女川浜=が震災の犠牲となり、毎年、会場となった女川文学碑公園も津波で損壊した。祭りの中止も検討されたが、会員有志が「貝さんの遺志を引き継ごう」と決意。音響会社などの協力もあって継続することができた。
  冒頭のあいさつで、女川・光太郎の会の須田勘太郎会長(70)は「震災で、貝さんをはじめ多くの人が帰らぬ人となった。光太郎の残した紀行文は、水産業のまち女川の文化遺産。復興の励みにしたい」と強調した。
  貝さんは有志を募って、光太郎が三陸地方を巡り、同町に立ち寄った際に書いた紀行文などを題材にした文学碑を1991年に建立。
  行政や団体からの補助金に頼らず、寄付だけで資金を集めた草の根運動が注目を集めた。碑の周囲を公園化し、92年から光太郎が三陸巡りに出発した8月9日に光太郎祭を実施。町民や光太郎の詩の愛好者、研究者が全国から集まるイベントに成長した。
  今年は、光太郎が女川町を訪れて80年、光太郎祭は20回の節目。貝さんは年明け前から開催準備に入っていたが、津波により女川文学碑公園近くの自宅で生涯を閉じた。

その後も仮設住宅集会所、仮設商店街と場所を変えながら、女川光太郎祭は継続。今年で25回目となります。平成25年(2013)からは、当方が記念講演を務めさせていただいております。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、昨夜、千葉県浦安市のディズニーリゾート脇にある、シネマイクスピアリさんにて、その女川の復興を追ったドキュメンタリー映画「サンマとカタール~女川つながる人々」を拝見して参りました。

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当方の住む千葉県での上映はここだけで、なぜ浦安? と思っていたのですが、震災の被災地つながりで、平成25年(2013)に、復興支援を目的としたイベントが開催されていた縁などがあったためのようです。

そんなわけで、上映前には、プロデューサー・益田祐美子氏、浦安商工会議所会頭・柳内光子氏らの舞台挨拶がありました。

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映画本編は73分と短めでしたが、女川の復興にかける、人々の熱い思いが詰まった一篇でした。女川光太郎祭に毎年ご協力いただいている須田善明町長も主要キャストとしてご出演。同じく光太郎祭で演奏して下さっている女川潮騒太鼓轟会の方も写りました。昨年の光太郎祭の様子はこちら

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主に昨年3月のJR石巻線女川駅の復旧時、それに伴って行われた「復幸祭」、同じく昨年12月の「おながわ復興まちびらき2015冬」前後の様子が中心でした

さらに、中東の国・カタールからの支援。カタールは、女川同様に水産業もさかんで、かつて天然ガスのプラント建設で日本の援助を受けたことから、『カタールフレンド基金』(総額1億米ドル)を設立。震災の翌年、そのうちの20億円をかけて、女川港に多機能水産加工施設「MASKAR(マスカー)」が作られました。こちらもある意味、復興のシンボルです。

こうした熱い物語の数々に、当方の隣に座られていたご婦人は何度もハンカチで涙をぬぐわれていました。当方も、女川駅復旧で一番列車到着のシーンには、思わずうるっときました。鉄道マニアではないのですが、光太郎文学碑が出来て間もない頃、石巻線で壊滅前の女川を初めて訪れた時のことを思い出したのです。

その後調べたところ、以前にご紹介した時よりも、上映館が増えていました。今後上映されるのは以下の通りです。

宮城  石巻・みやぎ生協文化会館アイトピアホール
  7/15(金) 18:30
 テーマソング歌唱幹miki復幸ライブ
岩手   盛岡ルミエール            7/16(土)~7/22(金) 
青森   シネマディクト ルアール/ルージュ    6/25(土)~7/1(金)
神奈川 シネマ・ジャック&ベティ 
舞台挨拶あり  7/16(土)~7/22(金) 
岡山   岡山メルパ                6/24(金)迄 9:45/15:35
愛媛   松山市総合福祉センター 大会議室    7/17(日)18(月・祝)13:00/16:00
 

さらに上映館が広がってほしいものですし、自治体さん、学校さんなどでの上映にも対応していただきたいものです。

また、のちほどご紹介しますが、今年も8月9日に女川光太郎祭が開催されるはずです。こちらもよろしくお願いいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

里とほく荒磯づたひさまよひて岩かげに泣く海人(あま)を見しかな

明治33年(1900) 光太郎18歳

三陸といえば、海女さん。ただし、この歌は伊勢の歌人・太田軽舟の作品と共に雑誌『明星』に掲載されており、伊勢の海女さんを詠んだものかもしれません。