日曜日の『産経新聞』さん、千葉版に載った記事です。 

【Faceちば人物記】九十九里の松林守りたい 千葉市緑区の樹木医・石谷栄次さん(67)

 「植物の観察が好き。子供のころは学校の帰り道に雑草を見ながら確認して歩いた。自然の多様性にひかれる」。マツ枯れの発生している九十九里海岸の松林の再生などに取り組むボランティア団体「九十九里海岸の松林を守る会」代表として、同海岸にある松林の景観維持に奔走。病害虫「マツノマダラカミキリ」の駆除や、マツの大苗の植栽の管理などに取り組んでいる。
 関東に広がる大地、武蔵野の自然の中で育った。植物の観察が好きで、林の中で遊んでは草などの名前を覚えた。中高時代は生物部に所属し、植物を使った実験などに熱中。鳥取大農学部林学科に進学すると、ミミズやムカデといった多くの虫を研究し、自然の奥深さに一層ひかれていった。
 昭和49年に県に就職し、県の埋め立て地の緑化を推進する「環境緑化研究室」などで働いた。そうした仕事のなかで、樹木医と接する機会があった。木の治療をできることに魅力を感じ、平成14年に53歳で樹木医の資格を取得。埋め立て地の緑化に携わった経験から、緑化しにくいはずの海岸沿いに松林がある九十九里海岸に興味を持った。
 戦後に植えられた同海岸の松林は、地域住民により維持されてきた。農作が盛んな本県では、松林が風や砂から畑を守ってきたという。防災林でもあり、津波などから町を守る効果もある。
 だが、戦後に植えられてから40~50年がたち、マツは手薄な保護や病害虫などにより枯れてしまう。一宮町東浪見の真っ赤に枯れているマツを見て危機感を募らせ、「松林を守りたい」と奮起。17年に「九十九里海岸の松林を守る会」を結成し、松林の再生に賛同した者らと植林などに取り組み始めた。
 会結成の当初は、知名度不足のためか、病害虫の駆除イベントを行ってもなかなか人が集まらなかった。そこで、詩人で彫刻家の高村光太郎の妻で明治の洋画家としても有名な高村智恵子の親が昔住んでいた場所で植林のイベントを行うなど、注目を集めるよう工夫。活動の輪を徐々に広げ、これまで会で植えたマツは約千本に上っている。
 病害虫の駆除は容易ではない作業だ。だが、「やりたいことをやってこれた。現場で起きている問題を解決することが楽しい」と充実した表情で話す。白子町でマツの植林イベントを行った際には、参加した親子から「地域に貢献できた」と笑顔で話しかけられるといううれしい出来事もあった。
 「今後は、マツ枯れの予防技術と開発に取り組みたい」と抱負を語る。その一つが現在作成中の病害虫の検索システムで、インターネットを使い全国の樹木医に情報を発信してもらって被害分布図を作ることを目標にしている。「技術を提供し、診断と対策を提案したい。自分たちに何かできることを取り組みたい」と力を込めた。(牧山紘子)
                   ◇
【プロフィル】石谷栄次
 いしたに・えいじ 昭和24年、東京都小平市出身。千葉市緑区在住。樹木医で「九十九里海岸の松林を守る会」代表。趣味は花の写真撮影。好きな植物は紫色の花を咲かせる「ブーゲンビリア」といった熱帯植物。鳥取大卒。

イメージ 5

昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が約半年間療養した九十九里浜。その長大な海岸線に植えられた松林を守って下さっている樹木医さん。頭が下がります。


イメージ 1
こういうイベントがあったとは、気付きませんでした。

九十九里で智恵子が療養していた家は、「田村別荘」という名で、県道を挟んで国民宿舎サンライズ九十九里さんの斜め向かいにありました。その後、真亀川を渡った隣の大網白里市に移築され、保存されていました。一時は敷地内に光太郎短歌を刻んだ歌碑が新たに建てられたり、建物と一緒に移植されたというサボテンの木にも説明板が付けられたりと、きれいに整備されました。

しかし、平成11年(1999)3月、いろいろな感情的な行き違いなどがあり、突如取り壊されてしまいました。

イメージ 2

イメージ 4

イメージ 3

その後は荒れ放題となり、歌碑のみは残っているはずですが、雑草が繁るにまかせて近づけない状態になっていました。サボテンの木も現存しません。

上記チラシの地図を見ると、どうもここで植林イベントが行われたようです。気付きませんでした。


さて、東日本大震災後、東北の海岸では松林ならぬ巨大防潮堤の建設が進んでいるところもあります。それで本当に住民の皆さんの命が守れるならいいのですが、どうもゼネコンが群がる利権の匂いがぷんぷんしています。当方、毎年訪れている光太郎ゆかりの宮城県女川町では、防潮堤建設という選択はせず、あくまで海と共に生きる街作りを選びました。そのかわり、有事の際には徹底して逃げる、ということを統一方針としています。

なかなか難しい問題だとは思いますが、松林の整備などにももっともっと力が注がれて然るべきだと思われます。

女川、といえば、今夜、以前にこのブログでご紹介したドキュメンタリー映画『サンマとカタール 女川つながる人々』を拝見して参ります。明日はそのレポートを。


【折々の歌と句・光太郎】

中之條雲を出で来て人ごゝろ     昭和4年(1929) 光太郎47歳

「中之條」は通常「中之条」と表記される、群馬の中之条温泉です。この年、詩人の尾崎喜八と共に泊まった鍋屋旅館の宿帳に残した一句。まさに雲の中を歩くような雨天時の山歩きだったのではないでしょうか。

鍋屋旅館は江戸時代初めの創業。『東海道中膝栗毛』の十返舎一九や、安政の大獄の高野長英なども泊まったそうです。