一昨日の『岩手日日』さんの記事から。
花巻の魅力 知って 観光協会 地元塾教本を発行
花巻観光協会(佐々木博会長)は、冊子「はなまき地元塾教本」を発行した。花巻市内外の人たちに花巻の魅力を知ってもらおうと、市内の歴史や文化を分かりやすくまとめたもので、多くの活用に期待を込めている。
市内の歴史や文化、先人、イベント、特産物などの知識を深めてもらうことを狙いに、同協会を構成する企業や団体、個人合わせて390会員向けに製作。会員には旅館など、観光客と関わる企業などもあることから、花巻について再認識するとともに、もてなしの一つの手段として役立ててもらうことを想定している。
同協会が主催している「はなまき通検定」のテキストを基に編成。冊子は▽あなたは知ってるね?花巻市の概要▽歴史を感じる文化財▽技と味な特産品▽キラリと輝く先人達▽にぎわいイベント▽知ってソン(損)のない?雑学―の6項目で構成している。
このうちキラリと輝く先人達では、宮沢賢治や高村光太郎、多田等観など10人余りについて、年表や写真などを用いて人柄や経歴を説明。史実などは、関係機関やボランティアガイドなどの協力を得て盛り込んだ。
このほか、市内の民俗芸能や名産、方言などの雑学も分かりやすく掲載。主なイベントを月ごとに紹介するなど、分かりやすさを意識して作製した。
同協会の髙橋誠吾さんは「花巻の魅力を再認識し、新たな発見にもつながればいい。市外の人にとっては、冊子が花巻を知る足掛かりになってほしい」と願っている。
冊子はA4判で82ページ。一般販売用に300冊を用意。価格は税込みで一冊500円。同市葛の市交流会館内の同協会事務所やJR花巻駅内の花巻観光案内所、JR新花巻駅内の花巻観光センターで扱っているほか、遠方からの注文には郵送などの相談に応じる。
問い合わせ先は同協会=0198(29)4522=。
旧太田村を含め、光太郎が足かけ8年を過ごし、第二の故郷ともいうべき花巻。宮沢家との深い交流もあり、花巻では花巻生まれではないものの、光太郎を地元の偉人の一人として扱って下さっています。
記事にもう一人名の上がっている多田等観も、光太郎と縁がありました。
等観は光太郎より7つ年下の明治23年(1890)生まれの僧侶。明治末から大正にかけて、チベットで修行し、チベット大蔵経全巻などの貴重な資料を携えて帰国しました。光太郎同様、花巻(旧湯口村)の円万寺に疎開、隣村にいた光太郎との行き来がありました。
ちなみに花巻市博物館さんでは、現在、テーマ展示「多田等観展~等観が辿った道」を開催中です(7/3まで)。
こちらは光太郎が等観に贈ったうちわ。「悠々無一物満喫荒涼美 高村光太郎 太田村山口 光」の揮毫が入っています。左の方は、昭和20年(1945)の花巻空襲で宮沢家を焼け出された光太郎を、一時期自宅に住まわせてくれた、旧制花巻中学校元校長・佐藤昌の揮毫です。
花巻に残された等観の遺品等は花巻市博物館さんに収められているはずですので、このうちわも含まれているのではないでしょうか。
それはさておき、『はなまき地元塾教本』、記事にあるとおり、花巻市各所で取り扱っている他、花巻観光協会さんに申し込みも出来るようです。来月にはまた花巻に行って参りますので、入手してこようと思っております。
【折々の歌と句・光太郎】
ちちはははわが顔を見てはらはらと落つるなみだをかくし玉はず
明治42年(1909) 光太郎27歳
こうした部分での親心には感謝しつつも、西洋で世界最先端の本物を見てきた光太郎、江戸仏師の流れを汲む光雲とは、芸術上の異なる道を歩み始めざるを得なくなります。
明治43年(1910)、『スバル』に発表された「出さずにしまつた手紙の一束」から。
親と子は実際講和の出来ない戦闘を続けなければならない。親が強ければ子を堕落させて所謂孝子に為てしまふ。子が強ければ鈴虫の様に親を喰ひ殺してしまふのだ。ああ、厭だ。(略)僕を外国に寄来したのは親爺の一生の誤りだった。(略)僕は今に鈴虫の様なことをやるにきまつてゐる。
最晩年の昭和29年(1954)、『新潮』に載った「父との関係」から。
「父と子」の問題はギリシヤこのかた、この世に於ける最もむつかしい、解決に苦しむ関係の一つである。それは時代のもつれにかかはり、遺伝の入り交じりつながり、個と個との相反親和、処世と信念との衝突妥協の微妙な有機的因縁に左右せられ、その上、親子の愛といふ本能的原始感情が加はつて、大局は一つの運命といふやうな形となつてこの問題に被ひかぶさつてくる。
小さくはあるが、私たちも亦私たちなりに苦しんだ。
小さくはあるが、私たちも亦私たちなりに苦しんだ。
今日は「父の日」だそうで。