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宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて
佐藤竜一著 2016/05/26 コールサック社 定価1500円+税
佐藤さんに対してきっと多くの詩人たちや光太郎・賢治・心平などの研究者たちは感謝と称賛の声を上げるだろう。なぜならこの労作から本格的な黄瀛研究が始まるからだ。そしてこれからも日中の架け橋であった黄瀛の存在を通して日本と中国の文化交流の本質的な在り方が問いかけられるに違いない。(鈴木比佐雄解説文より)
目次
はじめに
第一章 軍服を着た詩人
第一節 詩壇の寵児
第二章 日中戦争勃発と日本との訣別
第一節 詩人たちとの交遊
第二節 魯迅との出会い、別れ
第三節 日本との別離
第三章 日本の敗戦と国共内戦
第一節 漢奸狩りの犠牲に?
第二節 草野心平との再会
第三節 『改造評論』をめぐって
第四節 辻政信との出会い
第四章 半世紀ぶりの日本
第一節 四川外語学院教授
第二節 半世紀ぶりの日本
第五章 黄瀛と私
資料編
資料編(1) 黄瀛の詩
資料編(2) 黄瀛のエッセイ・評論
黄瀛略年譜
主要参考文献
【解説】鈴木比佐雄
おわりに
著者略歴
明治39年(1906)、中国重慶生まれ、中国人の父と、日本人の母を持ち、二つの国を行き来しながら活動した詩人・黄瀛(こうえい)の評伝です。
黄瀛は、朝日新聞に勤務していた中野秀人を介して光太郎と知り合い、さらに草野心平を光太郎に紹介する労も執っています。また、昭和4年(1929)には、宮沢賢治を花巻に訪ねてもいます。
光太郎は黄瀛の特異な才能を高く評価、その第二詩集『瑞枝』に序文を寄せたり、黄瀛をモデルに塑像を作ったりしました。
その後、黄瀛は中国国民党の将校となり、終戦後は共産党により投獄、昭和37年(1962)に出獄するも、文化大革命で日本との関係を糾弾され、4年後に再び獄中へ。再び自由の身となるのは、開放政策が始まった昭和53年(1978)のことでした。その後、平成17年(2005)に98歳で歿するまで、たびたび来日、心平と旧交を温めたりもしました。
著者の佐藤氏、平成6年(1994)に、日本地域社会研究所さんから、『黄瀛―その詩と数奇な生涯』という最初の評伝を上梓されましたが、その後判明した事実、新たに入手された資料などを盛り込み、ほぼ全面的に改稿したのが本書です。
『黄瀛―その詩と数奇な生涯』も、だいぶ示唆に富むものでしたが、さらに充実の内容です。特に光太郎との関わりで、黄瀛自身の書いた光太郎回想なども収録されており、興味深く拝読しました。
ぜひお買い求め下さい。
【折々の歌と句・光太郎】
熊いちご奥上州の山岨(やまそば)にひとりたうべてわれ熊となる
大正13年(1924) 光太郎42歳
「熊いちご」は野いちごの一種。ヘビイチゴと似ていますが、もっと丈が高くなるそうです。「たうべて」は「食べて」。
自宅兼事務所の裏山を、愛犬と散歩中に見つけました。熊イチゴならぬ、ブルーベリーです。
何とまあ、野菜の無人販売所のように、100円入れて勝手に摘んで下さい、とのこと。お互いの信用でこういうシステムが成り立つこの国のこういうところが、当方は大好きです。