一昨日のこのブログでご紹介した、渡辺えりさんから花巻の高村光太郎記念館への資料ご寄贈の件、昨日の『岩手日日』さんに報道されました。
光太郎ありき 父の人生 女優・渡辺えりさん ゆかりの資料を記念会へ
演出家、劇作家としても活躍する女優の渡辺えりさんが、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)ゆかりの資料2点を、花巻市の花巻高村光太郎記念会に寄贈した。資料は光太郎に心酔していた渡辺さんの父・正治さんに宛てられたはがきと署名入りの詩集「道程」。はがきは、かつて光太郎が稗貫郡太田村(現在の同市太田)で暮らしていた頃のもので、当時がしのばれる貴重な資料となっている。
贈呈式は盛岡市渋民の姫神ホールで4日、生誕130年を迎えた同市出身の歌人・石川啄木をしのぶ「啄木祭」の閉会後に行われた。記念会の高橋邦弘業務執行理事が、講演や対談のためホールを訪れていた渡辺さんから資料を受け取った。
渡辺さんらによると、詩集は終戦間近の1945(昭和20)年4月10日に、光太郎が東京のアトリエで正治さんにプレゼントした。安否確認で来訪した正治さんに、「記念に」とサインし手渡したという。米軍の空襲でアトリエが焼失する数日前のことだった。
当時10代後半だった正治さんは、軍需工場で航空機の製造に携わっていた。空襲により生きた心地がしなかった時、戦争賛美の詩「必死の時」をそらんじたことで不思議と恐怖心が和らぎ、作者の光太郎に心酔するようになったという。
はがきは戦後、古里の山形県で精進していた正治さんからの便りを受けたとみられる47年11月30日付の返信で、住所地は太田村。「宮沢賢治の魂にだんだん近くあなたが進んでいくやうに見えます」など後進を激励する内容で、当時の心境や思いがしのばれる貴重な資料と言える。
記念会への寄贈は2000年に正治さん、13年に渡辺さんが、それぞれ花巻市太田の高村山荘詩碑前で行われた「高村祭」で講演した縁もあって実現した。
ゆかりの資料について渡辺さんは「父は、自分は光太郎のおかげで生きていると常々話していた。はがきとサイン入りの本は父の人生そのもの」と話した。
記念会では準備が整い次第、花巻市太田の高村光太郎記念館で資料を公開する方針。高橋理事は「貴重な本とはがきの寄贈で本当にありがたい。正治さんの意向に沿うよう取り扱いたい」とし、光太郎の人柄をより深く知る資料として丁重に扱う考えを示している。
贈呈式には、市生涯学習課の市川清志課長や高村光太郎記念館職員の新渕和子さん、生前の光太郎と交流のあった高橋愛子さんらも出席。盛岡市渋民の石川啄木記念館の森義真館長も立ち会った。
記事にある戦時中の正治氏の光太郎訪問体験は、株式会社文伸さん刊行の『戦時下の武蔵野 Ⅰ 中島飛行機武蔵製作所への空襲を探る』という書籍に詳しく書かれています。
その頃、渡辺正治氏がそらんじていたという光太郎詩「必死の時」は、以下の通り。昭和16年(1941)の作です。戦時中には旧制中学校の教科書にも採用されていました。
必死の時
人は死をいそがねど
死は前方から迫る。
死を滅すの道ただ必死あるのみ。
必死は絶体絶命にして
そこに生死を絶つ。
必死は狡知の醜をふみにじつて
素朴にして当然なる大道をひらく。
天体は必死の理によって分秒をたがえず、
窓前の茶の花は葉かげに白く、
卓上の一枚の桐の葉は黄に枯れて、
天然の必死のいさぎよさを私に囁く。
安きを偸むものにまどひあり、
死を免れんとするものに虚勢あり。
一切を必死に委(ゐ)するもの、
一切を現有に於て見ざるもの、
一歩は一歩をすてて
つひに無窮にいたるもの、
かくの如きもの大なり。
生れて必死の世にあふはよきかな、
人その鍛錬によつて死に勝ち、
人その極限の日常によつてまことに生く。
未練を捨てよ、
おもはくを恥ぢよ、
皮肉と駄々をやめよ。
そはすべて閑日月なり。
われら現実の歴史に呼吸するもの、
今必死のときにあひて、
生死の区区たる我慾に生きんや。
心空しきもの満ち、
思い専らなるもの精緻なり。
必死の境に美はあまねく、
烈々として芳しきもの、
しずもりて光をたたふるもの
その境にただよふ。
死は前方から迫る。
死を滅すの道ただ必死あるのみ。
必死は絶体絶命にして
そこに生死を絶つ。
必死は狡知の醜をふみにじつて
素朴にして当然なる大道をひらく。
天体は必死の理によって分秒をたがえず、
窓前の茶の花は葉かげに白く、
卓上の一枚の桐の葉は黄に枯れて、
天然の必死のいさぎよさを私に囁く。
安きを偸むものにまどひあり、
死を免れんとするものに虚勢あり。
一切を必死に委(ゐ)するもの、
一切を現有に於て見ざるもの、
一歩は一歩をすてて
つひに無窮にいたるもの、
かくの如きもの大なり。
生れて必死の世にあふはよきかな、
人その鍛錬によつて死に勝ち、
人その極限の日常によつてまことに生く。
未練を捨てよ、
おもはくを恥ぢよ、
皮肉と駄々をやめよ。
そはすべて閑日月なり。
われら現実の歴史に呼吸するもの、
今必死のときにあひて、
生死の区区たる我慾に生きんや。
心空しきもの満ち、
思い専らなるもの精緻なり。
必死の境に美はあまねく、
烈々として芳しきもの、
しずもりて光をたたふるもの
その境にただよふ。
ああ必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋々としてゆたかなのは
われら民族のならひである。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋々としてゆたかなのは
われら民族のならひである。
戦後、岩手花巻郊外太田村の山小屋に蟄居し、自らの戦争責任を反省する中で、この詩を書いたことも思い起こされます。
わが詩をよみて人死に就けり
爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の大腿がぶらさがつた。
死はいつでもそこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向かつた。
その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
光太郎にとっては、「必死の時」はまったくの「負の遺産」だったわけですね。
昭和16年(1941)に「必死の時」を書いた時点では「爆弾は私の内の前後左右に落ちた。/電線に女の大腿がぶらさがつた。/死はいつでもそこにあつた。」という状況ではなかったはずですが、戦時中、求められてこの詩を揮毫して人に贈ったことがありました。おそらく複数回あったのではないかと思われます。そこで「死の恐怖から私自身を救ふために/「必死の時」を必死になつて私は書いた。」わけです。
そのあたり、えりさんもおわかりのようで、啄木祭のご講演での、「今は啄木も想像しないような世の中になってきたのではないか」と言い、「文化人を残すためにも平和教育を受けた私たちが戦争を食い止めなければいけない」(『朝日新聞』)というご発言につながるのでしょう。えりさんの書かれた、光太郎を主人公とした舞台「月にぬれた手」も、光太郎の戦争責任にスポットを当てた内容でした。
光太郎を考える上で、避けて通れない問題でしょう。
【折々の歌と句・光太郎】
ああ我はDAHLIA(ダリア)の花を賞づるにも人を離れて思ひがたかり
明治42年(1909) 光太郎27歳
最近、ダリアの花というのもあまり見かけなくなったような気がします。昔はセレブの庭には必ずあり、光太郎も智恵子の実家、福島の長沼家に球根を贈り、それが咲いた際には近隣の住民が見物に来たというエピソードもあります。
こちら、愛犬の散歩中に見かけました。庭ではなく、畑の一角に咲いていました(笑)。