昨日は、千代田区および横浜戸塚に行って、3件、用事を済ませて参りました。

まず、午前9時。開館と同時に、皇居東御苑内の三の丸尚蔵館さんへ。3月に始まった展示「古典再生――作家たちの挑戦」が展示替えで先月末から「後期」になり、光太郎の父・光雲の木彫2点「猿置物」「養蚕天女」が出ています。

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外界から東御苑に通じる大手門。大手町の高層ビルを背景に見ると、ギャップがすごいですね。
お濠には、白鳥も。

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尚蔵館さんは、門をくぐってすぐです。

入り口に「猿置物」の大きな写真。展示の目玉の一つということで、サムネイル的に扱って下さっています。

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光雲木彫の優品を見るのは、昨年、栃木の佐野東石美術館さんでの「木彫の美-高村光雲と近現代の彫刻-」以来。その前は東京国立博物館さんで「老猿」を拝見、さらにその前はやはり尚蔵館さんで昨年開催された「鳥の楽園」でした。東博さんの「老猿」も常に出ているわけではなく、意外と光雲木彫の優品、首都圏では目にできる機会は多くありません。今回出た「猿置物」「養蚕天女」とも、拝見するのは14年ぶりでした。

相変わらず舌を巻くような超絶技巧。天女の衣の複雑な襞、猿の毛並みの一本一本までが表現され、しかも継ぎはぎや嵌め込みなどが一切無く、一本の木から彫り出されている気の遠くなるような緻密さ。しかし、そうと思って見なければ、それを感じさせない自然な仕上がり。脱帽です。

図録を購入して参りました。前期や中期の展示だったため、昨日並んでいなかった光雲弟子筋の荒川嶺雲や山崎朝雲の木彫なども載っており、興味深く拝見。木彫以外にも皇室の名品が目白押しです。

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次の目的地は、永田町の国会図書館さん。光雲の師・高村東雲、そのまた師の高橋鳳雲について調べる都合があり、寄りました。その他、光太郎がらみで戦時中の音楽界についても。

調べている最中に、携帯に着信。何と、渡辺えりさんからです。急いで通話の出来るコーナーに走りましたが、一歩間に合わず、留守電に切り替わってしまいました。再生すると石川啄木と光太郎の関係についてのご質問でした。昨日は、岩手盛岡で開催された啄木祭で、えりさんのご講演でした。当日になってそういう質問の電話をかけてこられるあたり、豪快ですね(笑)。こちらからかけても出ませんで、返答はメールで送りました。


国会図書館内の食堂で昼食を摂り、次なる目的地・横浜戸塚に向かいました。昨日のメインの目的、ピアニスト・荒野(こうの)愛子さん率いる「Aiko Kono Ensemble」のコンサートです。

開場は東戸塚駅近くの「Sala MASAKA」さん。一見、普通の住宅のようでしたが、キャパ30(つめればもう少し)くらいのホールを備えたライヴスペースでした。

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期間限定で、チェコ製の「ペトロフ」というメーカーのピアノが入っているとのことでした。

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このペトロフを荒野さん、オーボエで新實紗季さん、ヴァイオリン・藤田有希さん(第2部のみ)のお三方での演奏でした。作曲はすべて荒野さんです。

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2部構成で、第1部が荒野さんと新實さんお二人の「『智恵子抄』によるピアノとクラリネットのための小曲集」。

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荒野さん曰く「『智恵子抄』のイメージソング的にとらえてほしい」とのことでした。朗読なども入れない完全なインストゥルメンタルでそれをやるからには、かなりの自信がないと出来ないと思うのですが、充分に『智恵子抄』の世界が感じられました。

CDでは拝聴していましたが、やはり生の演奏だと、まったく違いますね。、眼を閉じれば阿多多羅(安達太良)山の山の上に毎日出てゐるほんとの空や、九十九里浜に群れたつ千鳥がイメージできました。特に千鳥は、ピアノの高音でその囀りが表されているように感じました。

休憩をはさんで第2部は、ヴァイオリンの藤田さんも加わって、「中原中也の追想 第一集」。

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こちらも完全なインストゥルメンタル000でした。当方、途中からあえてプログラムを伏せて聴いてみました。プログラムを見ずとも曲を聴いて、詩の題名が浮かぶかどうか試したわけです。最初に選択肢としての11篇がわかっていたので、ほぼ当たりました。そういうすばらしい作曲、演奏だったということですね。

中也といえば、光太郎は中也の第一詩集『山羊の歌』(昭和9年=1934)の装幀を手がけています。仲介したのは草野心平でした。

中也は光太郎より24歳下の明治40年(1907)生まれ。しかし、光太郎よりずっと早く、昭和12年(1937)に亡くなっています。数え31歳ですね。

その際に光太郎は「夭折を惜しむ――中原中也のこと――」という短文を心平の『歴程』に寄せています。

抜粋します。
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中原君とは生前数へる程しか会つてゐず、その多くはあわただしい酒席の間であつてしみじみ二人で話し交した事もなかつたが、その談笑のうちにも不思議に心は触れ合つた。中原君が突然「山羊の歌」の装幀をしてくれと申入れて来た時も、何だか約束事のやうな感じがして安心して引き受けた。中原君の詩は所謂抒情詩の域を超えた抒情詩といふべきで、それは愬へたり、うたつたりする段階から遙に超脱して、心やものがそのまま声を発するものであつた。

詩に於ける彼の領地は人の思ふよりも新しい。うまいやうな、まづいやうな、まづいやうなうまいやうなあの技巧は比類が無い。言葉は平明であるが、表現せられたものは奥深く薄気味わるい程渾沌たるものが遠くにもやもやと隠れてゐる。

所謂大死一番のところを彼はほんとに死んでしまつた。死んだものは為方ないが、此の難道をもう一度突破せしめたかつた。彼の根づよい、もつと大きな、真新しい日本的性格の詩がたくさん生れたに違ひないのだ。

お三方の演奏を聴きながら、光太郎のこの言を思い出しました。右は、終演後のお三方です。


というわけで、非常に有意義な1日でした。


【折々の歌と句・光太郎】

笛の音にもし形(かたち)あらばしら玉のくだけしあまた入りみだれをらむ

明治33年(1900) 光太郎18歳

ピアノ、オーボエ、ヴァイオリンの素晴らしい音色に耳を傾けつつ、この歌を思い浮かべました。