まずは一昨日の『読売新聞』さんの夕刊。品川にある「レモン哀歌」詩碑をご紹介下さいました。 

タイムトラベル 高村智恵子記念詩碑 夫婦愛を刻む「レモン哀歌」

 JR大井町駅から歩いて10分の住宅街に、高村光太郎(1883~1956年)の詩が刻まれた碑が立っている。妻の智恵子がレモンを口に含んだ最期の姿を詠んだ「レモン哀歌」だ。
 一帯は、智恵子が晩年、精神を病んで入院した病院の跡地。1938年(昭和13年)に52歳で亡くなるまでの4年近くを、ここで過ごした。光太郎が見舞いで持ってきた菓子の包み紙や千代紙を切り貼りし、「紙絵」に没頭したという。作品は1千数百点に上る。
 病院はその後移転し、建物は解体された。地元有志の「品川郷土の会」は当初、土地の所有者から許可を得てレモンの木を植えたものの育たなかったため、寄付金を募って黒御影石製の碑を建てた。
 高さは、智恵子の推定身長に合わせ150㌢。刻まれた文字は、光太郎の自筆原稿を拡大したものだ。各地のファンが訪れているためか、碑の前にはいつもレモンが供えられている。同会の土屋恒行・名誉会長(91)は「碑に刻まれた詩を朗読すると、書物とは違う感慨があるのでは」と話す。
 詩にこんな一節がある。
 <わたしの手からとつた一つのレモンを あなたのきれいな歯ががりりと噛(か)んだ>
 今年は智恵子の生誕130年。切なく美しい夫妻の最後の時間に思いを巡らせた。

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記事にあるとおり、碑のある場所は智恵子終焉の地・ゼームス坂病院跡です。

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「ゼームス坂」は、ジャーデン=マディソン商会の長崎支社(グラバー商会)の社員として幕末に来日し、明治期に海軍省に雇われたイギリス人、J.M.ジェームスが坂の下に住んでおり、私財を投じて道路の整備を行ったことからついた名です。

「グラバー商会」というと、すぐ世界で最も有名な秘密結社―矛盾していますね(笑)―フリーメーソンと関連づける向きがありますが、どうだったのでしょうか。

病院は大正12年(1923)の開院。当時としては珍しい開放病棟を採用していたとのこと。セレブ対象の小規模な病院で、昭和9年(1934)に亡くなった光雲の遺産が、智恵子の入院費用に充てられたそうです。

当方、この碑のある場所にはもちろん行きましたが、それも20数年前。しばらく行っていません。また、機会を見つけて行ってみたいと思っています。


続いて、6月1日発行の『広報にほんまつ』。智恵子の故郷だけあって、随所に詩「あどけない話」に出て来る「ほんとの空」の語を使って下さいます。安達太良山山開きレポート他もう1件。 

絶景ほんとの空に出会った  第62回安達太良山山開き

 5月15日、日本百名山で知られる安達太良山の山開きが行われました。雲一つない青空に恵まれた今回の山開きには、県内外から約12,500人が訪れ、新緑の安達太良山を楽しみました。
 吾妻連峰、猪苗代湖、磐梯山、蔵王連峰など360度見渡せる大パノラマに、登山者らは足を止め記念写真を撮るなどして、雄大な景色を思い思いに楽しんでいる様子でした。
 山頂では、先着3,000人に山開き記念のペナントが配られ、安全祈願祭や恒例のミズあだたらコンテストも開催されました。50人が参加したミズあだたらコンテストで、ミズに選ばれたのは、山田ちあきさん(宮城県角田市)、準ミズには関本恭子さん(福島市)が選ばれました。風もほとんどなく快晴の天気となったこの日は、登山シーズン到来を迎えるに相応しい一日でした。

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にほんまつのほんとの空とつながってる

インタビュー/青年海外協力隊 マラウイ・青少年活動 本田 藍(ほんだらん 二本松市金色)

“Just stay, just living”
マラウイの人は家族のことをよく質問してくるのですが、はじめの頃、こんなやり取りがよくありました。
マラウイ人:「兄弟はいるの?」
本田:「お兄ちゃんがいるよ」
マラウイ人:「何をしているの? Just stay? Just living?」
本田:「仕事してるよ。Just stay? って何?」
マラウイ人:「仕事がないから家にいるってことだよ」
マラウイでは高校を卒業しても仕事がなく、ただ生活しているという方が多いようで、そのような人たちのことを“Just stay, just living”と言っているようです。

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マラウイ人の気質や慣習、独特の料理等
基本的にマラウイの人たちは穏やかでゆったりしています。日常の小さなことにも楽しみを見つけるのが上手で、よく笑います。音楽と踊りが大好きで街中にはいつも音楽が流れ、踊っている人がいます。 マラウイの食事は「シマ」と呼ばれるメイズの粉をお湯でといて練ったものに、トマトや葉物、豆などを煮込んで塩と油で味付けをしたおかずを合わせるのが一般的で、お肉は高級品なので週に1,2回しか食べません。また、日本の中古車がマラウイ国内をたくさん走っていて、企業の名前やステッカーなどがそのまま日本語で書いてあることに驚きました。

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福島県人としての誇り
マラウイに来て、2011年の東日本大震災を知っているマラウイ人に出会いました。私の出身地、福島も被災地の1つだということを話すと、「街は大丈夫なのか?」「放射能は大丈夫なのか?」と心配してくれ嬉しくなりました。同時に、日本から遠く離れたこの国にまで広がるほど大きな災害だったのだ、ということを改めて認識しました。福島は、震災後日本だけにとどまらず、世界中から多くの支援や応援を受け、少しずつ復興の道をたどってきたと思います。このような状況の中でアフリカのマラウイという地に来るチャンスを与えられた今、日本ではなく福島に行ってみたい、と現地の人に言ってもらえるような活動ができたらと思っています。

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安達太良山の中腹にある、国際協力機構(JICA)二本松青年海外協力隊訓練所から巣立っていった隊員の方のレポートですね。

他の隊員の方に関する話題を、以前、このブログでご紹介しています。

「にほんまつのほんとの空とつながってる」、いいフレーズですね。


【折々の歌と句・光太郎】

まど近くなくなる蛙我が宿の夜をゆかしみ来る友もがな
明治33年(1900) 光太郎18歳

そろそろ入梅かな、という感じの天気予報ですね。当方自宅兼事務所の網戸にも、アマガエルがやってきます。