昨日、紀尾井町福田家さんについてこのブログでご紹介しましたが、その記事の執筆のため、『高村光太郎全集』第13巻の、昭和24(1949)、同25年(1950)に書かれた「通信事項」という項を繰っておりました。
紀尾井町福田家さんの女将、福田マチに関する記述を探すのが目的でしたが、別件で、思いがけない名前を発見しました。
大橋鎭子。NHKさんの連続テレビ小説「とと姉ちゃん」で、高畑充希さん演じるヒロイン・小橋常子のモデルとなった人物です。鎭子に関しては、2週間ほど前のこのブログでご紹介しました。その際はドラマで『青鞜』が取り上げられるということを書きました。
その他、光太郎とのからみとして、戦前に鎭子が編集に当たっていた『日本読書新聞』に、光太郎が寄稿していることを書きました。それ以上のかかわりが、2週間前の時点ではつかめていませんでした。
ところが、昨日、改めて『高村光太郎全集』第13巻の「通信事項」を調べていて、鎭子の名を見つけ、驚いた次第です。「通信事項」は、日記が失われている昭和24(1949)、同25年(1950)の分のみ、日記の代わりとして『高村光太郎全集』第13巻に掲載されている、郵便物等の授受の記録のノートです。
なぜ昨日まで気付かなかったのか、これにはわけがあります。言い訳がましくなりますが、弁解させて下さい(笑)。当会顧問・北川太一先生が中心となって編まれ、平成10年(1998)に完結した増補版『高村光太郎全集』。全21巻+別巻1の構成で、別巻にはさまざまな索引が載っており、その中で、「人名索引」もあって、常に活用させていただいています。ところが、この「人名索引」には漏れがあるのです。「漏れ」というより、意図的にそうした編集方針を採ったのですが、「通信事項」の部分に表れる人名はカットされているのです。これは、「通信事項」の部分がほぼ人名の羅列だからということで、ここに書かれている人名までカウントすると、「人名索引」が現在の倍くらいになってしまうという判断だと思います。
たとえば光太郎と縁の深かった草野心平。縁が深かっただけに、別巻の「人名索引」では右の通り、すでにかなりのスペースですが、ここに「通信事項」の第13巻415ページから542ページまでの分を入れると、さらにスペースを拡大しなければなりません。全ページに心平の名が載っていれば「415~542」で済みますが、実際にはとびとびに名が出て来ますので、「417,421,431,436,438~440,442……」などとなってしまい、煩雑です。
そこで、「通信事項」は「人名索引」の対象にしていないというわけです。
ところが、ここで困ることが一つ。「通信事項」にしか名前が出てこない人物がいるのです。昨日ご紹介した福田マチもそうでしたし、大橋鎭子もまたしかり。そういう場合も「人名索引」には名が載っていません。
福田マチに関しては、「通信事項」に名が載っていることを記憶していましたが、鎭子の名が載っていたことは完全に覚えていませんでした。というより、「大橋鎭子」の名を当方がしっかり認識したのは、「とと姉ちゃん」の放映が決まってからで、ここ1年くらいの話です。「通信事項」全体をちゃんと読み返したのは、1年以上前、花巻高村光太郎記念会さんの依頼で、『高村光太郎 山居七年 年譜』を執筆していた頃でしたので、その時点では鎭子の名はスルーしていました。不覚。
さて、「通信事項」に書かれた鎭子の名。まずは昭和25年(1950)7月6日です。
大橋鏡子さんよりテカミ(来訪の由)
「鏡子」となっていますが、「鎭子」の誤りです。この時期に光太郎が受け取った書簡のほとんどは、当会顧問・北川太一先生の手元にあり、おそらくそれと照合した結果、「鏡子」でなく「鎭子」と判断されたのでしょう。「鏡」の脇に「(鎭)」とルビが振ってあります。
「来訪」ということは、この後、鎭子が花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に、光太郎を訪ねたのだと考えられます。この時期の光太郎日記が失われているのが、かえすがえす惜しいことです。
続いて7月12日。
大橋鎭子さんよりテカミ
ここからは正しく「鎭子」となっています。おそらく、「先日はお忙しいところ、お邪魔いたしました」といった内容なのでは、と思われます。
さらに7月25日。
クラシの手帖より電報(原稿の事)
これは当時、鎭子が編集に当たっていた『美しい暮しの手帖』のことと思われます。ちなみにこの頃はまだ送りがな等のルールが確立して居らず、「暮らし」ではなく「暮し」です。
8月23日にも。
大橋鎭子さんよりテカミ(原稿の事)
そして8月30日。
大橋鎭子さんへ返ハカキ (略) 大橋鎭子さんより「くらしの手帳」八冊
光太郎から鎭子への発信の記録はこれだけです。
翌8月31日。
大橋鎭子さんよりテカミ
おそらく、「別便で『美しい暮しの手帖』八冊送りました」的な内容と思われます。
最後に少し飛んで、11月9日。
大橋鎭子さんよりテカミ(原稿の事)
見落としがなければ、以上です。ただし、『高村光太郎全集』には掲載されていませんが、翌年以降も「通信事項」ノートは継続されていますので、そちらにも鎭子の名があるかも知れません。
以下、推理です。
昭和25年(1950)7月上旬、鎭子が花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に光太郎を訪ね、『美しい暮しの手帖』への寄稿を依頼。戦前の『日本読書新聞』の関係で、2人は面識があったと思われます。ところが光太郎は生返事。そこで鎭子は「こんな雑誌です」ということで、『美しい暮しの手帖』のバックナンバーを送附。しかし気乗りしない光太郎、断りのハガキ。諦めない鎭子はまた依頼の書簡を送るも、光太郎は無視。
こんなところではないかと思われます。
『美しい暮しの手帖』への光太郎の寄稿は、確認できていません。ただ、未確認の寄稿がもしかするとあるかも知れませんし、時折、ハガキがそのまま載せられているというケースもありますので、調べてみます。
同時に、先述の通り、この時期の光太郎に宛てた書簡類、さらに昭和26年以降の「通信事項」ノートは、当会顧問・北川太一先生の手元に残っているはずですので、問い合わせてみます。
逆に昭和25年(1950)、8月30日に光太郎が鎭子に送ったハガキ、どこかに残っていないかな、と期待する次第です。また、鎭子の書いたものの中に、光太郎に関する記述がないかも気になります。
さて、「とと姉ちゃん」。先々週のオンエアで、『青鞜』がらみの展開となりました。
昭和11年(1926)、ヒロイン・常子(鎭子)の女学校での新しい担任・東堂チヨが、生徒の前で平塚らいてうの『青鞜』創刊の辞をぶちあげ、女性の自立を促しました。片桐はいりさんの熱演(怪演?)はさすがでした。
衝撃を受けた常子は、東堂先生から『青鞜』を借ります。
智恵子デザインの表紙です。前作「あさが来た」でも、終盤に大島優子さん演じる平塚らいてうが登場、小道具として使われました。
「とと姉ちゃん」に戻ります。
常子はすっかり『青鞜』にはまります。
そして、進学希望を打ち明けられず、悩んでいる妹の鞠子(相良樹さん)にまた貸し。鞠子もすっかりとりこになります。
さらに、阿部純子さん演じる常子の親友の中田綾も、独自のルートで『青鞜』を入手、影響を受けたらしいことが語られます。
常子、鞠子、綾は、戦後、『美しい暮しの手帖』(ドラマでは『あなたの暮し』)を立ち上げることになり、そのバックボーンになったのが『青鞜』だったという設定ですね。
今後の展開が楽しみです。
【折々の歌と句・光太郎】
衣かへてジヨツトの塔に登りけり 明治42年(1909) 光太郎27歳
「ジヨツトの塔」は、イタリア・フィレンツェにあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の鐘楼です。
光太郎がここを訪れたのは、明治42年(1909)3月末から4月はじめ。「衣かへ」は真冬の服装から春物への衣替えと思われますが、やはり「衣替え」といえば今の時期の季語ですので、今日、紹介させていただきます。