先週、NHKさんの首都圏版ローカルニュースをたまたま見ていて、気になるニュースに出会いました。
老舗料亭が文化人ゆかりの調度品競売 収益は桜再生に
文豪、川端康成などの文化人が通ったことでも知られる東京・千代田区の老舗の料亭が近くに移転縮小するのに伴い、調度品の数々をオークションで販売して、その収益を地元の桜並木の再生事業に役立てることになりました。
千代田区紀尾井町にある「福田家」は昭和14年の開業以来、ノーベル文学賞を受賞した川端康成や物理学賞の湯川秀樹などの文化人のほか、歴代の総理大臣も通ったことで知られる料亭です。
今回、近くに移転し、規模を縮小することから由緒ある調度品およそ300点をインターネットのオークションで販売することになりました。
このうち、川端康成から譲り受けた角皿はかつて、かっぽう旅館だった料亭に本人が宿泊した際に気に入られていた先代のおかみが渡されたものだということです。
また、芸術家で美食家としても知られる北大路魯山人から譲り受けた湯飲みもあります。
このほか、店で使われてきた鉄瓶や高さ2メートル50センチもある振り子時計など、いずれも歴史の重みを感じさせる品々です。
収益の一部は古くなって傷んだ地元の桜並木を再生する区の事業に寄付されますが、先々代の経営者も桜への愛着が深く、桜の名所として知られる真田濠に植えた桜の苗木100本を寄贈した経緯もあるということです。
オークションはすでに始まっていて、ことし7月31日まで行われる予定です。料亭を経営する福田貴之さんは「祖父が寄贈した桜も年を重ねたので、寄付金で整備してもらい、多くの観光客に楽しんでもらえたら」と話していました。
今回、近くに移転し、規模を縮小することから由緒ある調度品およそ300点をインターネットのオークションで販売することになりました。
このうち、川端康成から譲り受けた角皿はかつて、かっぽう旅館だった料亭に本人が宿泊した際に気に入られていた先代のおかみが渡されたものだということです。
また、芸術家で美食家としても知られる北大路魯山人から譲り受けた湯飲みもあります。
このほか、店で使われてきた鉄瓶や高さ2メートル50センチもある振り子時計など、いずれも歴史の重みを感じさせる品々です。
収益の一部は古くなって傷んだ地元の桜並木を再生する区の事業に寄付されますが、先々代の経営者も桜への愛着が深く、桜の名所として知られる真田濠に植えた桜の苗木100本を寄贈した経緯もあるということです。
オークションはすでに始まっていて、ことし7月31日まで行われる予定です。料亭を経営する福田貴之さんは「祖父が寄贈した桜も年を重ねたので、寄付金で整備してもらい、多くの観光客に楽しんでもらえたら」と話していました。
紀尾井町の福田家さん。一昨年のこのブログでご紹介しました。昭和27年(1952)の10月に、光太郎と、元陸軍少尉にして栄養学者の川島四郎、詩人の竹内てるよによる座談会「高村光太郎先生に簡素生活と健康の体験を聞く」が行われ、翌年1月の『主婦之友』に掲載されました。昭和27年(1952)10月といえば、光太郎が十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため、岩手花巻郊外太田村から再上京したばかりです。
その際に、この年5月に亡くなった福田家さんの先代女将、福田マチが、太田村在住時の光太郎に大量の食料を贈っていたことが判明しました。判明、というと変ですが、贈り主が福田家の女将だったと判明したということです。
以前にも引用しましたが、もう一度、『主婦之友』の記事から。
「この世は美しいよ。やつぱりいゝことはするもんだなあ」
と感激性のH記者。老詩人高村光太郎先生を囲む座談会から先生を送つて帰社するなりひどく感心した様子で語り出した――
座談会は、千代田紀尾井町の福田家といふ旅館で開いたが、座に着いた高村先生
「僕の山の家へね、食糧不足のころ、二度も沢山の食物を送つてくれた人があるんです。紀尾井町の福田さん……この家ぢやないかな」
と感慨深さう。
女中さんに聞いてみると、やつぱり先生の推察どほり、贈主は、この五月に亡くなつた先代主人福田マチさんだつた。
福田さんは隠れた篤行で、これまでもしばしば話題になつた人、新聞か雑誌で高村先生の御生活を読んだことから、慰問品を送つたものらしい。
「お礼も云はず失礼したが……」
高村先生は滅多に書かれない筆をとつて、福田家さんのために「美ならざるなし」と色紙に認め、心からほつとした面持。
偶然選んだ会場ながら、思はぬ美しい因縁話で、かくはH記者を感心させた次第だつた。
一度目は、昭和25年(1950)9月でした。この年の光太郎日記は大半が失われていますが、郵便等の授受を記録した「通信事項」というノートが残されており、そこに記述がありました。
福田マチさんといふ人より書留小包(抹茶、茶筌、牛肥菓子一折、放出ものスープ2罐、焼きのり一罐、つけもの一瓶)
前日には封書が届いた旨の記述もあります。
福田マチさんといふ人よりテカミ(よみうりを見たといふ事)
おそらく、『読売新聞』あたりに光太郎の山小屋生活を報じる記事が出、それを読んだ女将が食料を贈ったということなのでしょう。
また、もう一度、同程度の食料が届いたようですが、こちらは翌年以降のようで、昭和25年(1950)の「通信事項」に記述がありません。「通信事項」は日記が失われている昭和24年(1949)、25年(1950)の分のみ、『高村光太郎全集』第13巻に掲載されています。
のちに福田家さんがマチの顕彰のために私家版刊行した冊子に、光太郎から贈られた色紙の写真が掲載されています。
さて、その福田家さんが、調度品類約300点をオークションに出品とのこと。
調べてみましたところ、Yahooさんのオークション「ヤフオク!」に、【紀尾井町福田家】ということで、さまざまなものが出品されています。
報道では「およそ300点」とありますが、300点、一気に出品というわけではなく、小出しにしているようです。そこで、「ことし7月31日まで行われる予定」ということなのでしょう。もしかすると、昭和27年(1952)に光太郎がこちらを訪れた際に使用した椅子や食器なども含まれているかも知れません。
「収益を地元の桜並木の再生事業に役立てる」というのが素晴らしいですね。調べてみたところ、この桜並木は、マチの13回忌を記念して、昭和39年(1964)に献木されたそうです。
川端康成から贈られた皿なども出品されたようで、もしかすると、今後、完全に光太郎がらみの品も出て来るかも知れません。注意していたいと思います。
【折々の歌と句・光太郎】
石像に雨ふる日なり衣がへ 明治42年(1909) 光太郎27歳
5月ももうすぐ終わり、6月の声を聴くことになります。となると、衣替えですね。
ただ、昨今は「クールビズ」とかで、5月にはノータイ、上着無しという職場も多いようですし、中高生の制服も、昔のように杓子定規でなく、5月末から6月はじめは夏服でも冬服でも、という柔軟な対応が為されているようです。