このブログも5年目に入りまして、閲覧数が10万件突破しています。ありがとうございます。割り算をすると、一日平均70件弱の閲覧を頂いています。

が、時折、閲覧数が跳ね上がります。イベントのレポートなどを載せた際に、そのイベントの関係者の方などがよくご覧下さるようです。

岩手花巻に滞在中だった先日の日曜日も急に多数のご訪問。その時はなぜ?という感じでした。前日には花巻のレポートを載せていましたが、携帯からの短い投稿でしたので、閲覧数の跳ね上がるような内容ではありませんでした。

携帯からではどの記事にアクセスがあったのかなどの解析が出来ません(そろそろタブレットを買え、ということでしょうか)。帰って参りまして、解析のページを見ると、末盛千枝子さんに関わる記事に多数のアクセスがあることがわかりました。

そこで思い当たったのが、新聞の書評欄。各紙おおむね日曜日に掲載されますが、末盛さんの新刊『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』の書評が、どこかの新聞に載ったので(近々書評が出るだろうと思っていました)、さらに同書についてネットでサーチされた方が当方ブログにたどりつかれたのだろう、というわけです。

果たして、ありました。

まず『日本経済新聞』さん。光太郎智恵子の名も出して下さいました。 

あとがきのあと 「私」を受け容れて生きる 末盛千枝子氏 困難を克服しつつ歩む人生

 彫刻家、舟越保武の長女。やはり彫刻家となった舟越桂の姉にあたり、家族の死や事故、震災、皇后美智子さまとの交流など起伏に富んだ人生を歩んできた。絵本作りに尽力し、国際児童図書評議会(IBBY)の理事も務めた。そんな半生を本書で振り返った。
 幼いころは裕福とはいえず、我慢の多い生活で心の支えになったのが絵本。やがてこれを仕事とし、美智子皇后さまにIBBYの退会でビデオで講演していただく機会を得た。「皇后さまはとても優しく気品があり、りんとした方。長男が入院したとき、すぐにお見舞いの電話を下さったことは忘れられない」と話す。
 皇后さまの気遣いは、スポーツの事故で体が不自由になった長男のこと。その父である最初の夫も54歳で突然死した。「こうした出来事がなければ今の人生はなかった。それで幸せかといわれれば分からない。でも、私に与えられた運命を受け入れて生きてきた」
 本書には実際、悲しみよりも感謝や慈しみの言葉が多くつづられる。それは、幼い弟の死をきっかけとした「信仰」ゆえだという。カトリックの指導者だった再婚相手から「神様はあなたをひいきしている」と言われたことが忘れられない。「困難を、神様からの宿題として受け止めて一つ一つ克服する私を見て、ある種のうらやましさを感じたのだろうと思う」とほほえむ。
 名付け親は父が尊敬した高村光太郎。「智恵子抄」で知られる高村の妻の名の漢字を替えて「千枝子」だ。
 2010年には岩手県八幡平市に引っ越し、東日本大震災を経験。被災地に絵本を届ける事業に奔走し、13年に再婚相手を看取ったことを機に、心の整理の一環として本書を書きとめた。「つらいことはたくさんあったけれど、決して不幸ではなかった。人生は生きるに値すると伝えたい」

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同日、『朝日新聞』さんにも書評が載りました。ただし、こちらには光太郎智恵子の名はありません。 

(著者に会いたい) 「私」を受け容れて生きる 父と母の娘 末盛千枝子さん(75)苦しかったことも自分の一部

 40年近く絵本の編集に携わってきた。「心を打つ絵本には、どこかに悲しみのひとはけが塗られている。そして、きちんと希望がある」と言う。平坦(へいたん)ではない自身の道程を著した本書を読むと、人生にも重なる言葉に思えてくる。
 父は彫刻家の舟越保武氏。7人きょうだいの長女で、大学卒業後、出版社で働いた。独立後、皇后美智子さまの講演録や英訳詩集を手がけ、親交を深めてきた。「『でんでん虫のかなしみ』というお話があってね、と最初に伺った時はびっくりして」。だれもが悲しみを背負っていることを伝える新美南吉の物語で、子どもの頃に出会った本が、のちの美智子さまを支えてきたのだと心に染みた。
 自身も困難に直面してきた。42歳の時、8歳と6歳の息子を残して夫が急死した。15年前には長男が事故で脊髄(せきずい)を損傷し、胸から下が動かなくなった。経営難に陥った出版社をたたみ、東京から父の故郷・岩手に移り住んでまもなく東日本大震災に遭う。
 「幸せとは、自分の運命を受け容(い)れることから始まる」との思いが書名の由来。だが「そう思えない時もあったのでは?」と尋ねると、「時間はかかるけれど、あきらめずにいれば、いつしか困難を乗り越え、強くなっていることに気づく。苦しかったことも、今の自分の一部なんですよね」としみじみと語った。
 病院からの帰り道、盛岡で車いすの長男と映画や展覧会を楽しむ。「東京では出来なかったこと。何が幸いするかわからない。ここでたくさん友だちを得たことも不思議なご褒美」とほほ笑んだ。被災した子どもたちに絵本を届ける活動を、今も仲間と続けている。

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当方、末盛さんとは2回お目にかかりました。最初は代官山で開催されたクラブヒルサイドさん主催の読書会「少女は本を読んで大人になる」(この記録集『少女は本を読んで大人になる』も好評発売中です)、二度目は一昨年の花巻高村祭。こういうと失礼ですが、本当に素敵なお年の召し方をされている方です。当方も、それから作家の中江有理さんも、「朝ドラのヒロインのよう」と感じています。ぜひお読み下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ
大正12年(1923) 光太郎41歳

今日、平成28年(2016)5月20日は、明治19年(1886)、福島県安達郡油井村(現・二本松市油井)に生まれた智恵子の130回目の誕生日です。

この短歌は、「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な詩「樹下の二人」に添えられたものです。

光太郎最晩年、昭和30年(1955)に、当会顧問の北川太一先生が採った聞き書きには、以下の一節があります。

「樹下の二人」の前にある歌は安達原公園で作ったんです。僕が遠くに居て智恵子が木の下に居た。人というのは万葉でも特別の人を指すんです。
 詩の方はお寺に行く道の山の上に見晴らしの良いところがあってね、その土堤の上に坐って二人で話した。もう明日僕が東京に帰るという時でね。それをあとから作ったんです。詩と歌は別々に出来てそれをあとで一緒にしたわけだ。

二本松では今日から高村智恵子生誕130年記念事業「智恵子生誕祭」が行われます。明日、ぶらりと行ってみようと思っています。