先週末、花巻でチラシを入手して参りました。

啄木生誕130年・盛岡市玉山村合併10周年 2016啄木祭 ~母を背負ひて~

日 時 : 平成28年6月4日(土) 13:30開演 (13:00開場)
場 所 : 姫神ホール(盛岡市渋民公民館)  盛岡市渋民字鶴塚55番地
講 演 : 「わたしと啄木・賢治・光太郎」渡辺えり氏(劇作家・演出家・女優)
対 談 : 「啄木の母」 渡辺えり氏×森義真氏(石川啄木記念館長)
料 金 : 前売1,000円 当日1,300円
定 員 : 550人
主 催 : 啄木祭実行委員会
共 催 : 盛岡市,盛岡市教育委員会,(公財)盛岡観光コンベンション協会,
      盛岡商工会議所,盛岡芸術協会,(公財)盛岡市文化振興事業団

本年は啄木生誕130年,盛岡市玉山村合併10周年の節目の年であり,郷土の歌人石川啄木を偲び,「2016啄木祭~母を背負ひて~」が開催されます。
今年は,女優でNHK連続テレビ小説「あまちゃん」にも出演していた渡辺えり氏を講師にお迎えして,「わたしと啄木・賢治・光太郎」と題して講演していただきます。
また,渋民小学校鼓笛隊や渋民中学校群読劇,女性コーラスグループのコールすずらんなど,啄木にちなんだ歌や劇が披露されます。
皆さまどうぞご来場ください。

問合せ先 : 石川啄木記念館 019-683-2315

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宮澤賢治と並び、岩手を代表する文学者である石川啄木。明治19年(1886)生まれの光太郎より3歳年少でしたので、智恵子と同じく今年が生誕130年になります。ただし、啄木は前年の出生であるという説もあるようです。明治45年(1912)、数え27歳で歿したその短い生涯の中に、光太郎との接点がありました。

明治35年(1902)、旧制盛岡中学を退学し、上京した啄木は、その2年前には東京美術学校在学中の光太郎も加わっていた、与謝野鉄幹の主宰する新詩社同人となりました。この年11月に東京牛込で開催された新詩社小集(同人の会合)で、二人は初めて出会ったと思われます。当時の啄木の作は、短歌より詩や小説が中心でした。

同38年(1905)4月には、新詩社演劇会が開催され、ドイツの劇作家コッツェブー作の喜劇「放心家(うつかりもの)」、光太郎作の戯曲「青年画家」が上演されました。「放心家」では、主役の軍人を光太郎が演じ、啄木も出演しています。

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啄木は光太郎のアトリエをしばしば訪れていましたが、光太郎は当時の啄木を高く評価していませんでした。「彼の詩は美辞麗句ばかりで青年客気の野心勃々というあくどさがあってどうも私は感心しなかった。」と、昭和23年(1948)の対談で語った他、同様の発言は多くあります。詩でも「いつのことだか忘れたが、/私と話すつもりで来た啄木も、/彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに/すつかりあきらめて帰つていつた。」(「彫刻一途」昭和22年=1947)と記しています。

その後、啄木は盛岡に移り、光太郎は足かけ4年にわたる欧米留学に出、一旦、二人の交流は途絶えます。両者が再会したのは、光太郎帰国後の明治42年(1909)。その前年には、啄木も再上京しています。新詩社の機関誌『明星』は廃刊となり、後継誌『スバル』が啄木を編集人として創刊されていました。留学先のパリからも寄稿をしていた光太郎は、帰国後、詩や評論をどしどし発表します。その関係で、二人はたびたび顔を合わせていたと推定されます。

この頃の啄木は、明治43年(1910)刊行の『一握の砂』に収められた短歌を量産していた時期で、のちに光太郎は「前は才気走つたオツチヨコチヨイみたいな人だった」としながらも、この時期の啄木は「病気になつてから、あの人はうんとあの人の本領になつた」(対談「わが生涯」昭和30年=1955)と語っています。

しかし、病魔に蝕まれた啄木は、明治45年(1912)に還らぬ人となってしまいました。その生がさらに長く続いたとしたら、光太郎との間係がどう発展していったのか、興味深いところです。


さて、講演と対談に、渡辺えりさんがご登場。

えりさんのお父様、渡辺正治氏が光太郎と面識があり、さらに宮沢賢治の精神に共鳴していたというご縁から、えりさんは光太郎を主人公とした「月に濡れた手」、賢治が主人公の「天使猫」という舞台をそれぞれ公演なさいました。そして、今回初めて知ったのですが、啄木に関しても「泣き虫なまいき石川啄木」という舞台では、啄木の母・カツの役をなさったこともあるそうです。

えりさんの講演は、平成25年(2013)の花巻高村祭その翌日の花巻市文化会館で拝聴しましたが、さすが大女優、時の経つのも忘れる素晴らしいお話でした。

ぜひ足をお運びください。

えりさんに関しては、もう一つネタがありますが、またのちほど。


【折々の歌と句・光太郎】

山形によき友ありてわれをよぶみちのはたてに火あるがごとし
昭和24年(1949) 光太郎67歳
山形ご出身の渡辺えりさんにちなんで。

この年11月、詩人の真壁仁らが中心となり、山形市美術ホールで「高村智恵子遺作切抜絵展覧会」が開催され、光太郎は翌年には県綜合美術展のため、山形を訪れています(えりさんのお父様はこの際の講演をお聴きになっています)。この歌はおそらくそれらに関わると推定されます。