昨日、『青鞜』がらみの演劇公演をご紹介しましたので、さらに『青鞜』つながりで。
現在、NHKさんで放映中の連続テレビ小説「とと姉ちゃん」から。
連続テレビ小説 とと姉ちゃん 第7週 「常子、ビジネスに挑戦する」
NHK総合 (月~土)8:00~8:15 再放送 12:45~13:00
NHKBSプレミアム (月~土)7:30~7:45 再放送 23:00~23:15
(土) 9:30~11:00[1週間分]
(土) 9:30~11:00[1週間分]
戦前の静岡県遠州。繊維のまちで育った主人公・小橋常子(10)は三人姉妹の長女。染物工場の営業部長で子ども思いの父と優しい母を茶目っけたっぷりに「とと」「かか」と呼びながら、鞠子(まりこ)(9)と美子(よしこ)(4)という二人の妹の面倒をみるしっかりものの娘。
経済的に不自由なく幸福な生活を送っていた常子たちだったが、父・竹蔵が結核にかかったことで生活は一変する。死の間際、竹蔵は常子だけを呼び寄せ「ととのいなくなったあとは、常子が自分の代わりに家族を守ってほしい」と遺言。常子はその言葉を胸に、二人の幼い妹と、母を守って生きていこうと、胸に誓う―。
そんな遠州での生活も、染物工場からの援助が閉ざされたことで、たち行かなくなり、母・君子(きみこ)は、仲違いしている東京・深川の母(三姉妹の祖母)に頭を下げて一家で上京することを決意。東京で待っていた祖母・滝子(たきこ)の援助を受けながら、三姉妹と君子は激動の時代を懸命に生きていく。
第37回 2016年5月16日(月)
あと1年で女学校を卒業する学年になった常子(高畑充希)は、僅かでも給料の良い就職先を探していた。そんな折、新担任の東堂チヨ(片桐はいり)の演説に衝撃を受ける。
昭和11年春。常子(高畑充希)は女学校最高学年の五年生となる。クラスの同級生の大半が嫁いでいく中で、家族の食いぶちを稼ぐため、少しでも給料の高い仕事を探していた。そんな折、新たな担任としてやってきた東堂チヨ(片桐はいり)に出会う。「女性とはこうあるべき」という固定観念に捕われず、自分の気持ちに正直に挑戦する大切さを教わる。一方、鞠子(相楽樹)は進学したい思いを誰にも相談できず、深いため息をつく…。
第38回 2016年5月17日(火)
悩む鞠子を心配し、常子は東堂から借りた「青鞜」を渡す。感銘を受けた二人は東堂に助言を受け、何かに挑戦したい気持ちになる。そんな時、災いを呼ぶ男・鉄郎が現れて…。
どこか元気のない鞠子(相楽樹)を心配し、常子(高畑充希)は、東堂(片桐はいり)から借りた「青鞜」を渡す。感銘を受けた二人は、女性だからという理由だけで尻込みせず、挑戦することが大切だと東堂から助言され、何かを始めたい気持ちが湧き上がる。一方、時代は次第にきな臭くなり、青柳や森田屋も不況の波が押し寄せ、自粛ムードが漂っていた。そんな折、鉄郎(向井理)が森田屋に現れ、どんちゃん騒ぎが始まってしまい…。
連続テレビ小説「とと姉ちゃん」。妹たちと共に、女性のための情報誌『暮しの手帖』を創刊した編集者・大橋鎭子をヒロイン・常子のモデルとしています。
『暮しの手帖』の創刊は戦後ですが、その契機の一つとなるエピソードとして、『青鞜』の影響が描かれるわけですね。また、妹の鞠子はらいてうに傾倒する、という流れになるようです。
実際にそういうことがあったのかどうか存じませんが、来週の物語の舞台は昭和11年(1936)、『青鞜』は明治44年(1911)に、平塚らいてうの編集、智恵子の手になる表紙絵で創刊され、その後、伊藤野枝に委ねられて大正5年(1916)に廃刊になっています。時期的にかなりの開きがあるので、おそらくドラマとしての演出なのでは、と思われます。
ちなみに常子のモデルとなった大橋鎭子は、東京府立第六高等女学校を昭和12年(1937)卒業、いったん銀行に就職しますが、日本女子大学校に入学し直します。智恵子の後輩となぅたわけですが、結核のためほどなく退学。その後、日本読書新聞社に入り、『日本読書新聞』の編集に当たります。それが太平洋戦争前のことで、朝ドラではどう描かれるかと期待しています。
光太郎、戦後の『暮しの手帖』への寄稿は確認できていませんが、『日本読書新聞』には、昭和17年(1942)から19年(1944)にかけ、たびたびエッセイや詩、アンケート回答を寄せています。
前作「あさが来た」では、光太郎智恵子と関わりのあった、広岡浅子や成瀬仁蔵が登場しましたし、一昨年の「花子とアン」でも、ヒロインのモデル・村岡花子や、作家の長谷川時雨など、光太郎と関わった人物が登場しました。しかし、光太郎智恵子は登場せずじまい。「とと姉ちゃん」では、どうなることでしょうか……。
5/30追記 光太郎と大橋鎭子について、さらに追記しました。ご覧下さい。
【折々の歌と句・光太郎】
乳色のぎやまん皿と赤茄子のうしろに光る初夏の風
明治43年(1910) 光太郎28歳
ここでの「赤茄子」はトマトのことのようです。前年に欧米留学から帰った光太郎、食習慣はかなり洋風になったとのことで、朝はパン食が多かったようです。