長野県安曇野市の豊科近代美術館の学芸員さんから、同館友の会という組織の会報を戴きました。同館は、それぞれ光太郎と親交のあった彫刻家・高田博厚、画家の宮芳平の作品を柱としています。

そんなわけで、連翹忌関連の資料、当方編集の『光太郎資料』などをお送りしており、その添え状に「当方、高村光太郎文筆作品、彫刻・絵画作品等の資料集成をライフワークとしており、光太郎に関する稀少資料(書簡、草稿、揮毫、稀覯雑誌他)を所蔵されている個人、団体等の情報がございましたら、御一報いただければ幸甚に存じます。」と書きましたところ、応えて下さいました。

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送って下さった学芸員さんによる「昭和6年に出した2枚のハガキ」という記事が載っており、未知の光太郎書簡が紹介されていました。宛先は滞仏中の高田博厚。高田に宛てた光太郎書簡はこれまで確認できていなかったので、驚きました。さらに戦前、それからフランスに送った外信用はがきというのも驚きです。

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内容的には身辺近状の報告といったところですが、面疔を病み半強制的に入院させられたこと、「ロマン・ロラン友の会」で一緒だった片山敏彦や、パリで客死した平林初之輔などに触れており、興味深いものでした。

「僕も仕事に精進してゐます」という一節があります。しかし、この直後、智恵子の心の病が顕在化し、その看病のため、光太郎はしばらく彫刻不可能の状態に陥ります。そうした史実を踏まえて読むと、心が痛みます。

以前にも書きましたが、筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』第21巻には、書簡宛先の人名索引が載っています。しかし、あるべきはずの名前が抜けていたりします。たくさん手紙を送っていたはずの人の名がないということで、その人あての書簡が見つかっていないのです。例えば有島兄弟、石井柏亭、志賀直哉、梅原龍三郎、岸田劉生、黒田清輝、深沢省三・紅子夫妻、吉井勇などなど。また、与謝野晶子や荻原守衛、武者小路実篤、川路柳虹、佐藤春夫などにあてたものは、それぞれ1~2通ずつしか見つかっていません(晶子、武者、佐藤あてはここ数年で見つけましたがそれでも1通ずつです)が、もっともっとあったはずです。
 
受けとった人自身が処分してしまったか、関東大震災や太平洋戦争などで焼失してしまったか、それとも人知れず眠っているかと言ったところですね。
 
新たな書簡により、少しずつ空白が埋まり、光太郎の新たな一面が見えてくるものです。人知れず眠っているものの発掘をライフワークの一環として続けて参りますので、ご協力をよろしくお願いします。


【折々の歌と句・光太郎】

春風やアルプスの雪遠く白し     明治42年(1909) 光太郎27歳

スイス経由イタリア旅行中の吟で、ここでいう「アルプス」は本物のヨーロッパアルプスのことです。

日本の中部地方には日本アルプスがあり、毎年、4月22日には、その麓の安曇野市碌山美術館さんで、光太郎の盟友・荻原守衛を偲ぶ「碌山忌」が開催されています。毎年、寄せていただき、今年も行く予定でした。さらに近くにあるいろいろな美術館さん、文学館さんに立ち寄るのも楽しみで、今年は豊科近代美術館さんに寄ろうと心に決めていました。

しかし今年は碌山忌当日に当方居住地の自治会長の集まりがあり(今年度、町内会長をやっております)、泣く泣く欠礼することにしました。

夏には碌山美術館さんで「夏季特別企画展 光太郎没後60周年記念 高村光太郎-彫刻と詩-展」があり、関連行事としての講演を頼まれておりますので、その機会に伺いますが、残念です。