昨日の岩手の地方紙『盛岡タイムス』さんに載った記事です。 

首都と県都に生きる歌人 東京・文京区 盛岡市 啄木の顕彰に協力 終焉の地歌碑や展示室

 盛岡市と東京都文京区は、石川啄木の縁で地域文化交流に関する協定を結び、それぞれが歌人を顕彰している。昨年3月22日には同区小石川5丁目に石川啄木終焉(えん)の地歌碑が建立、顕彰室が開設された。1年後の今年は生誕130年を迎え、訪れる人が増えている。顕彰室には盛岡市や啄木記念館が協力し、直筆原稿(複製)などを展示。生没の地が手を結び、啄木の歌を今に伝える。文京区には新渡戸稲造、宮沢賢治、高村光太郎の旧居跡もあり岩手、盛岡と縁が深い。先人が生きた時代の風を、首都と県都で現代に受け渡す。

  啄木は1902(明治35)年16歳で初めて上京し、文京区に滞在した。渋民への帰郷や北海道の流浪を経て再び上京し、1908(明治41)年から12(明治45)年まで4年間住み、26歳で没した。

  顕彰室と歌碑は2013年に同区の諮問機関として石川啄木終焉の地歌碑等検討会の設立に始まり、地元の努力で実現した。区立小石川五丁目短期入所生活介護施設等の一角に、寄付を募った文京区石川啄木基金を活用して整備した。啄木の足跡や文京区との関わりを中心に、パネル、年表、書簡などで紹介している。

 現地にはもとは東京都旧跡石川啄木終焉の地の石柱が建っていたが、再開発に伴い撤去され、啄木ファンや住民を寂しがらせていた。歌碑を建立してよすがとし、「悲しき玩具」冒頭の二首を記した。石材は盛岡産の姫神小桜石を用い、渋民建立の最初の啄木歌碑と同じ材質に、望郷の念を刻んだ。昨年3月22日には成澤廣修文京区長、谷藤裕明盛岡市長らが参列し、除幕式が行われた。

  文京区アカデミー推進課観光担当の諸久子主査は「文京区は東大はじめ大学が19ある文化と教育の区であり、名前に文が付く文学の都。森鴎外や夏目漱石はもとより、啄木、樋口一葉、坪内逍遙が住み、宮沢賢治の旧居跡もある」と話す。文壇の奥座敷として都心部にあり、多くの名作の舞台となってきた。

  盛岡市とは区市の共催で啄木学級文の京講座を開くなど、文化や観光で協力してきた。盛岡市教委歴史文化課の岡聰学芸主査は「東京との間に築いた協力の間柄を続けながら、お互いに啄木を顕彰していきたい。文京区は上京した先人たちが一度はお世話になったところだ」と話し、新渡戸や賢治も含めた縁を大切にしている。


というわけで、啄木が取り持つ縁で、盛岡市と東京都文京区の地域交流が行われているとの内容です。調べてみたところ、両市区は、東日本大震災を受け、「「石川啄木ゆかりの地」災害時における相互応援に関する協定」も結んでいました。ある意味、すばらしいですね。

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行政レベルで地方自治体同士が、一人の人物を媒介にして交流。調べれば他にもあるのでしょうが、あまり多い例ではないと思います。

そういえば、戦後、光太郎が暮らした岩手県花巻市と、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が設置された青森県十和田市は、友好都市ということになっています。ただ、そもそもは、花巻出身の新渡戸稲造の祖父・傳(つとう)と父・十次郎、兄・七郎の三代が、十和田三本木原の灌漑開発に功績があったことから結ばれたそうです。

しかし、後付けですが、両市とも光太郎に縁が深いということで、その点からの友好都市交流も行われています。昨年は十和田市主催の花巻市探訪ツアーで、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)と、リニューアルなった花巻高村光太郎記念館の見学、逆に花巻市太田地区振興会の皆さんが十和田湖を訪れての交流会などがありました。

さて、上記『盛岡タイムス』さんの記事にもあるとおり、文京区は光太郎が最も長く暮らしたところです(当時は本郷区でしたが)。また、盛岡にもたびたび足を運んでいます。そして啄木と光太郎も与謝野夫妻の新詩社や雑誌『スバル』を通し、縁がありました。光太郎が脚本を書き、啄木が出演した素人演劇なども上演されています。また、智恵子が通った日本女子大学校も文京区(こちらも当時は小石川区でしたが)です。

そんなこんなで、やはり後付けで、盛岡市さと文京区さんの交流に、光太郎もからめていただきたいものです。

そう考えると、光太郎智恵子に深く関わる自治体さんは他にもたくさんあります。それぞれの地でいろいろやっていただいている部分はありますが、そういったところ同士での、光太郎智恵子を縁(えにし)とする交流も活発になってほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

寝顔よき女や春の汽車の中        明治42年(1909) 光太郎27歳

光太郎の短歌、俳句は、その詩と同様に、直截なものが多いのが特徴です。これなどはその最たる例の一つですね。