今日は光太郎の誕生日です。戸籍上は明日、3月14日を誕生日としていますが、家族も光太郎自身も、13日を誕生日と認識していました。
存命であれば、満で言うと133歳。ただ、この時代の人はまだ数え年で数えていましたので、このブログでも光太郎の年令は数え年で表記しています。児童生徒の「1年生」「2年生」のように、出生の時点で「生まれて1年目だから1歳」と数える方式です。学校に「0年生」がいないのと同じで、「0歳」というのは存在しません。
閑話休題。
昨日は、当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市と隣接している旭市に行っておりました。用件自体は光太郎がらみではなく、趣味で取り組んでいる音楽関係の用事でしたが、それが終わった後で、光太郎にからめました。
旭市の東端に「刑部岬」というところがあります。北の銚子から連なる屏風ヶ浦と、南の九十九里浜との境界で、飯岡灯台も設置されています。
さらに「飯岡刑部岬展望館〜光と風〜」という施設があります。
展望館という名の通り、ここに上がると眺望が開けます。
南に目をやると、弧を描く九十九里浜。
その中央やや南寄りのあたりが、昭和8年(1933)、智恵子が療養していた片貝(現・九十九里町)。
ちなみによく晴れた日には、ここから富士山も望めます。
ただ、当方、ここには5~6回行きましたが、空が霞んでいる時が多く、富士山が見えたのは1度だけでした。
北に目を転じると、銚子の犬吠埼が見えます。
大正元年(1912)、写生旅行に来ていた光太郎を追って智恵子も来、愛を確かめた場所です。光太郎にはこの年発表された「犬吠の太郎」という詩もあります。
というわけで、今日誕生日を迎える光太郎を偲んで参りました。
高台にある刑部岬を下りると、飯岡漁港です。展望館から漁港が一望できます。
3.11翌日ということもあり、そちらにも足を運んでみました。
昨日も書きましたが、この辺りは東日本大震災で津波が押し寄せ、尊い命が奪われています。3.11当日の一昨日は、旭市で県と市による合同慰霊祭が行われました。5年が立ちましたが、ひん曲がった杭などにまだ傷跡が残っています。
さらに南下すると、九十九里浜に出られます。
5年前のあの日、この海が牙を剝いたのです。ここ飯岡で亡くなった方々、そしてやはり5年前のあの日、宮城県女川町で津波に呑まれて亡くなった女川光太郎の会の中心だった貝(佐々木)廣さんを偲び、手を合わせました。下記は当時の旭市の様子。
帰りがけ、高台の畑作地帯を通りました。たくさんの風車が回っています。
「銚子ウィンドファーム」と言って、大規模な風力発電施設です。他に耕作放棄地に設置されたソーラーパネルもかなり目に付きました。やはり、当方毎年訪れている川内村など、福島第一原発を抱える福島に思いを馳せざるを得ません。これがもっと広まれば、それで充分じゃないか、という気がします。
風力発電、太陽光発電とも、いろいろ課題はあるのでしょうが、少なくとも壊れても放射線を垂れ流すことはありません。いい加減、原子力ムラの利権に群がる人々には目を覚まして欲しいものです。
東北の被災地に光太郎智恵子ゆかりの地が多いということで、当方、復興支援の問題に非常に関心を持っておりますが、これも光太郎智恵子のもたらした縁と考え、今後も活動を続けたいと思っております。
【折々の歌と句・光太郎】
春の草ふみてあるきたや友おくりたや 昭和20年(1945) 光太郎63歳
駒込林町のアトリエが空襲で全焼し、宮澤賢治の実家の招きで花巻に疎開、直後に肺炎で臥床していた折の作品です。花巻まで行き添ってくれた年若い友人・宮崎稔の帰京に際しての作と推定されます。
シチュエーションは違えど、当方も昨日、九十九里浜で、志を同じうした亡き友・貝(佐々木)廣さんを偲びました。