昨日のこのブログで書きましたが、光太郎の父・光雲と縁のあった人物も既に登場しています。松坂慶子さん演じる大隈綾子です。
昭和4年(1929)、萬里閣書房から刊行された『光雲懐古談』という書物があります。大正11年(1922)から、光太郎と、光太郎の友人で作家の田村松魚が光雲の談話を聴き、田村がそれを書き留めたものが中心になっています。
その中に、「大隈綾子刀自の思い出」という一項が設けられています。田村による聞き取りが行われていた大正12年(1923)、綾子が亡くなったことを受け、ちょうどいいい機会だから、と語ったものです。
それによると、綾子は御徒町に住んでいた旗本・三枝家の娘で、その三枝家が光雲の師匠・東雲の得意客であったことに端を発します。
一度は東雲が間に入って綾子が大工棟梁の家に嫁いだり(程なく不縁となり、出戻りましたが)、東雲が三枝家の屋敷を買い取ったり(移築されて、後に徴兵逃れのため光雲の養母となる東雲の姉・悦が暮らしました)、綾子の兄で当主の竜之介が東雲に大黒様の像を彫って貰ったところ、間もなく綾子と大隈重信の結婚がまとまり、大黒様の御利益だと評判になって、三枝家の親類筋からも大黒様の注文が入ったり……若き日の光雲はそうした経緯をそばで見聞きしていました。
また、綾子が大隈家に嫁いだ後、綾子が実家に残した厖大な「南無阿弥陀仏」の願文を、光雲が師匠に命じられて、川施餓鬼の時に、二、三時間かけて吾妻橋から隅田川に流したこともあるそうです。
光雲の綾子評。
噂に聞けば大隈夫人綾子と云ふ人は、大層よく出来た人だとの評判であるが、成程、娘時代からあれ丈けの辛抱をして心を錬つて居られた丈あつて、今日天下一二と云はれる政治家の夫人となつてもやはりその妻としての役儀を立派に仕終せるといふは、心掛けがまた別なものであるかと感心したことでありました。
綾子が亡くなった後、綾子の過去に関する誤った風聞――光雲曰く「元、料理屋の女中であつたなど、誰々の妾であつたなど」――が広まり、それを憂えた光雲が、懐古談の中で、特に綾子の話をしたというわけです。
ところで、年令の関係ですが、光雲は嘉永5年(1853)の生まれ。綾子は2つ上の嘉永3年(1851)生まれです。ちなみに広岡浅子は嘉永2年(1850)生まれ。浅子の方が年上です。
「あさが来た」では波瑠さん(あさ)と松坂慶子さん(綾子)で、どう見ても綾子の方が年上に見えますが、そこはドラマの演出上、仕方がないのでしょう。
ところで光雲の語った「大隈綾子刀自の思い出」、「青空文庫」さんで読むことが出来ます。ぜひお読み下さい。
【折々の歌と句・光太郎】
春をりをり雨の寒さよ一人旅 明治42年(1909) 光太郎27歳
やっと暖かくなったと思ったら、寒の戻りで冷たい雨。「三寒四温」とはよく言ったものですね。