昨日は、東京下町区域に出かけておりました。
メインの目的は葛飾区立石のプラネターリアム銀河座さんでのプラネタリウム上映「智恵子抄と春空」の拝見でした。
京成電鉄の青砥駅で下車、案内にしたがって歩くこと数分、いかにもプラネタリウムというドームのある建物が目に入り、すぐにわかりました。
こちらは證願寺さんという寺院に併設されているという珍しいプラネタリウム施設です。ところが、会場は、通りから見えたいかにも、という建物ではなく、寺院の庫裡のような棟でした。
この中にドームがあるのです。驚きました。
始めにこの季節の星空が投影され、今見える惑星や星座の説明。プラネタリウムを観るのは数十年ぶりでしたが、機器やソフトの進歩はすごいものがありますね。昔は投影中もドームの内側にうっすらと線が見えたりしていたような気がしますが、そんなこともなく、本当に星空を観ているような感覚でした。
あどけない話
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ、
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ、
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
日本人の感覚では「春」といえば「霞」ですね。
しかし、気象用語では「霞」の語は使われず、「雲」か「霧」、あるいは「靄」だそうです。地面に接していないものが「雲」、地面に接していて、視界1㎞以下なら「霧」、それ以上なら「靄」。「春霞」というのは文学としての表現であって、科学的な用語ではないとのこと。勉強になりました。
その「春霞」も、湿気によるものではなく、この季節に大陸から飛んでくる「黄砂」によるもものだというお話でした。この季節に飛来が多く、何とアメリカ大陸にまで到達しているそうです。
昨今は健康への影響が懸念されるPM2.5(微小粒子状物質)の飛散も問題視されていますね。「あどけない話」が書かれた昭和初期の頃は、まだそうした懸念はなかったのでしょうが、光太郎よりも結核が早く進行した智恵子は、黄砂であっても敏感に反応したとも考えられます。
文学的に考えると、智恵子の言う「東京に空が無い」は、東京の閉塞感を表していると考えられます。絵画修行のため、日本女子大学校卒業後も望んで帰郷しなかった智恵子ですが、アトリエに専用の画室まで作ってもらいながら思うように伸びない自分の力量に対するいらだちはかなりのものだったでしょう。対するにパートナー光太郎の芸術はどんどん世に受け入れられ、明らかにその光太郎は智恵子の絵画を高く評価していません。しかし、実生活の部分では、光太郎は「智恵子によって私は救われた」と公言。それがアイデンティティーの喪失感につながったことは想像に難くありません。
また、もともと社交的でなかった智恵子ですが、光太郎も「俗世間」との交渉をなるべく断とうとしました。後に光太郎はその頃の生活を「智恵子と私とただ二人で/人に知られぬ生活を戦ひつつ/都会のまんなかに蟄居した。二人で築いた夢のかずかずは/みんな内の世界のものばかり。/検討するのも内部生命/蓄積するのも内部財宝。」(連作詩「暗愚小伝」中の「蟄居」昭和22年=1947)と表現しています。二人の間には子供も出来ませんでしたし、まさに「閉塞」ですね。
ところで、昨日のプログラムでは、連翹忌にも触れて下さいました。
当方自宅兼事務所の庭には、光太郎がその目で見て「かわいらしい花」と言った、終焉の地・中野アトリエに咲いていた連翹の子孫が植わっています。そちらはまだ咲きませんが、剪って花瓶に生けてある方は、室温で暖められ、もう咲き始めました。
連翹は中国原産です。「黄砂」と同じ「黄色」でも、大違いですね(笑)。
【折々の歌と句・光太郎】
ドナテロの石と対坐す朧月 明治42年(1909) 光太郎27歳
天体系の俳句です。「ドナテロ」はルネサンス初期のイタリア彫刻家。光太郎は高く評価していました。「石」はおそらく野外彫刻でしょう。
ドナテロの彫刻に月光が当たっている、ではなく、「石と対坐」する「朧月」。いいですね。
フィレンツェで詠まれた句ですが、この「朧月」も、サハラ砂漠から飛んできた黄砂の影響なのでしょうか。