今朝の『朝日新聞』さんの奈良版に以下の記事が載りました。 

戦時下を生きた詩人 奈良大で池田克己展

 明治末の吉野で生まれ、22歳で初の詩集を世に出した。戦時下の中国・上海で創作に力を注ぎ、文学界で光を放った。半ば忘れられた詩人の陰影を追う展示「海の彼方(かなた)の日本語文学 詩人・池田克己(かつみ)とその時代」が、奈良市山陵町の奈良大学図書館で開かれている。3月26日まで。
 豚の絵と「PIG」の文字を大書きした詩誌「豚」。表紙に写真やイラストをあしらったモダンな雰囲気の俳句雑誌「地図」、詩句誌「風地」……。いずれも池田克己(1912~53)が20代で刊行に関わったものだ。展示室には、大学や木田隆文准教授(43)が集めた古い雑誌が並ぶ。
 時は、軍靴の足音が近づく昭和10年代。吉野に暮らした池田が全国に呼びかけ、洗練された印刷物をつくっていたことについて、日本近代文学が専門の木田准教授は「林業で栄えていた当時の吉野には、最先端の情報も入ってきたのだろう」と見る。
 44年の3作目の詩集は高村光太郎が序文を寄せ、高見順らと詩誌を創刊するなど、日本を代表する詩人と交流があった。
 展示ケースには、「法隆寺土塀」という48年の作品もある。展示室では中身まで読めないが、中国で終戦を迎え、ぼろぼろに傷つき帰郷した池田が、白鳳・天平以来の時を超えた土塀を目の当たりにした心持ちをつづっている。
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 一方、「日本統治下上海の文化政策」「戦時上海の日本人文学者たち」と題した展示コーナーでは、占領政策を広めるために「大陸新報社」が出した雑誌、池田が始めた「上海文学研究会」の雑誌など、当時の出版物を紹介している。
 徴用が終わった後も上海にとどまった池田は、邦字紙「大陸新報」記者として活動する傍ら、現地の文学者仲間と創作に打ち込んだ。
 木田准教授はしかし、この時期のほとんどの資料が既に失われた、と指摘する。文学者や記者たちは占領政策に加担していた側面もあり、その仕事を顧みられることはあまりなかった。古書店などで集めたという書物は、歴史の大切な「証言者」だ。
 「複雑な国際関係の中を生きて、創作活動をやめなかった人たちがいた。彼らの行動を丁寧に捉え直すことが、この先の未来を考えるためにも必要ではないか」
 無料で、学外の人も見られる。2月29日~3月10日は蔵書点検で休み。開館時間などの問い合わせは図書館(0742・41・9507)。(栗田優美)
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■法隆寺土塀
 帽子にたまつた雨水をはらい000
 靴底につもった泥水を雑草になすり
 頬につたう雫をぬぐい
 龍田川からの一本道
 土砂降りしぶく一本道
 とうとう私はかえつてきた
 (略)
 私の中華民国十年の
 雑多矢鱈のボロボロの
 息せき切った一散の
 昏昏迷迷の
 びしょ濡れの
 前に立つ荒壁
 法隆寺土塀
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 〈池田克己〉 今の吉野町で生まれ、小学校卒業後、吉野工業学校(現・吉野高校)で建築を学ぶ。上京して写真を学び、地元に帰って写真館を営む傍ら、22歳で初詩集「芥は風に吹かれてゐる」を出版。1939年に上海へ派遣され、軍関係の建築にあたる。その後、邦字紙「大陸新報」記者に。45年11月に帰国し、40歳で他界するまで詩作を続けた。47年に創刊した詩誌「日本未来派」は、今も年2回発行されている。


この展覧会は存じませんで、早速調べてみました。 
期 間 : 2016年1月18日(月)~3月26日(土)
場 所 : 奈良大学図書館展示室(奈良市山陵町1500) ※一般の方も入館できます。
入場料 : 無料
 間 : 図書館開館時間に準じる(http://library.nara-u.ac.jp/nara/yotei.htm)。
     ※大学春休み期間は開館日が変動しますので、ご注意ください。

展覧会で取り上げる池田克己(1912-1953)は、奈良県吉野生まれの詩人です。
戦前の彼は、吉野を拠点に詩作を行い、詩雑誌「豚」を主催、全国的に注目される詩人となりました。
その後日中戦争に徴用、除隊後も上海に残り、その地で長江一帯に住む日本人・中国人の文学者を結集した上海文学研究会を結成。戦時下の上海でさまざまな日本語文学書を出版します。
そして戦後になって日本に帰国したのちも、日中で交流した詩人たちを再結集した詩サークル「日本未来派」を結成。戦後日本の現代詩の基礎を築きあげる活動をしました。
本展示では、その池田克己の足跡を関連する書物を取り上げながら紹介してゆきます。
展示図書のうち、特に戦時下の中国大陸で発行された日本文学関連図書は、国内外の図書館にも所蔵がないものがほとんどです。
なかには今回が新発見・初公開のものも多数含まれています。
 戦前期の奈良吉野でモダンな近代詩運動が繰り広げられていたことは、奈良県民の皆さんもあまりご存知ないことだと思います。
また〈日本文学〉が、海外にも広がっていたこと、そして〈日本人〉だけがそれを担っていたのではないということも今回の展示からは浮かび上がります。
 一人の詩人の足跡をたどりながら、〈日本語文学〉の多様さを感じていただければ幸いです。


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池田克己は明治45年(1912)生まれの詩人。特殊建設の現場監督として徴用され、中国大陸に渡って復員。昭和22年(1947)に、高見順、菊岡久利らと詩誌『日本未来派』を創刊しました。早くから光太郎を敬愛し、昭和19年(1944)に刊行された池田の詩集『上海雑草原』では光太郎に序文を依頼し、戦後は花巻郊外太田村の山小屋を訪れたりもしました。

こちらは昭和23年(1948)7月の『小説新潮』グラビアに載った池田撮影の光太郎ポートレート。

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また、当方、池田の名が記された光太郎書簡を持っております。昭和23年(1948)5月、札幌の『日本未来派』発行所の八森虎太郎に送ったものです。

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「落下傘」をいただき、又池田克己氏詩集をもいただき、何とも恐縮に存じました、 大変立派に出来てゐるので気持ちよく思ひました、 池田さんからは「法隆寺土塀」をもいただき、 この処詩の大饗宴です。

厚く御礼申上げます。

『朝日新聞』さんの記事に紹介されている『法隆寺土塀』についても触れられています。

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上記は昭和23年(1948)7月刊行の『日本未来派』第13号。『法隆寺土塀』の広告が出ています。


こういうマイナーな文学者を取り上げる企画展、各地の文学館さんでもちょっと難しいところがあると思います。そういう意味では大学さんで企画していただくのは非常にありがたいところですね。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

ワガ ヤマニライカヲモチテイチハヤクタヅ ネコシカレトカタリシコトゴ ト
昭和28年(1953) 光太郎71歳

池田の急逝に際し、光太郎が送った弔電に載せられた短歌です。当時の電報は片仮名のみでした。漢字平仮名交じりにすれば「我が山に ライカを持ちて いち早く 訪ね来し彼と 語ることごと」。上記のポートレートに関わります。


弔電、といえば、昨夜、当方も地元の郵便局から弔電を発送しました。

名古屋学芸大学教授で、『智恵子抄の新見と実証』(新典社 平成20年=2008)、『『智恵子抄』の世界』(同 平成16年=2004 奥様の裕子様と共編著)などのご著書のある大島龍彦氏が亡くなられました。

当方が現今の立場になる以前、光太郎忌日・連翹忌の仕切りを数年間やってくださり、高村光太郎研究会、名古屋高村光太郎談話会などでご活躍でした。

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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。