広島に本社を置く地方紙『中国新聞』さんに、今週、光太郎の名が出ました。
[Peaceあすへのバトン] 広島大4年・福岡奈織さん
広島大4年 福岡奈織さん(23) 体験の共有 皆が「主役」
「おしゃれに、気軽に、対話する」。友人と一緒につくった広島県内の大学生グループ「リンガ・フランカ」の活動方針です。被爆した人と若者が語り合う会「はちろくトーク」を開催しています。
「原爆って何?」と質問する同世代は多くいます。「核や平和の話題は真面目」「勉強したことがなく、どう考えればいいのか分からない」とも聞きます。それでも、約100人の大学生が会に来てくれます。みんな「知りたい」という意欲はあるのです。
一方的に講演を聞くのではありません。一人一人が「主役」になって証言を聞き、次のステップを踏み出すにはどうしたらいいか。相手を「被爆者」ではなく「あなた」と捉え、若い「私」たちが言葉を交わす場にしようと思い付きました。バーで開いたり、カフェで企画を練ったりして若い感性を生かしています。
40代で亡くなった祖父は10代の時に被爆。死後に生まれた私は体験を直接聞くことも、「3世」という意識も持つこともないまま生活していました。それが、一つの話を聞いて気持ちが変わりました。東京の非政府組織(NGO)主催の船旅で、アウシュビッツ強制収容所跡(ポーランド)を見学した時でした。
あるイスラエルの20代の女性は、アウシュビッツに来て初めて自分の祖父がホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の生還者だと知り、ショックを受けたそうです。悲劇の重みを感じた彼女の話に、同じ3世という自らの姿を重ねました。自分の生きている意味を考えざるをえませんでした。
祖父が死んでいたら自分もいなかった―。そう想像すると、被爆3世という事実を大切にしようと決めました。帰国後、親族たちに会いに行って話を聞き、祖父の姿を探りました。
卒業論文では、フランスの核実験が続いた南太平洋ポリネシアを訪れ、実験場で働いたタヒチ島の7人にインタビューしました。広島と同じく、拾わないとなくなってしまう声です。
高村光太郎の「智恵子抄」の一節にあるように、見えないもの、聞こえないものを、見えるもの、聞こえるものにして、発信していくことが私の目標です。
広島は被爆という痛みを抱えたからこそ、世界の他の悲しみと向き合い、分かり合える可能性を持っています。みんなが心を通して感じていける土台をつくっていきたいです。(文・山本祐司、写真・福井宏史)
10代へのメッセージ
いーっぱいの心をつかって、今を生きる。
ふくおか・なお
広島市出身。中学時代、講演を機に平和に関心を持つ。2014年、NGOピースボートの旅で世界を巡る。帰国後、リンガ・フランカを結成、若者と被爆者との距離を縮めようと努める。安芸区在住。
(2016年2月8日朝刊掲載)
広島市出身。中学時代、講演を機に平和に関心を持つ。2014年、NGOピースボートの旅で世界を巡る。帰国後、リンガ・フランカを結成、若者と被爆者との距離を縮めようと努める。安芸区在住。
(2016年2月8日朝刊掲載)
「見えないもの、聞こえないものを」云々は、「智恵子抄」中の「値(あ)ひがたき智恵子」(昭和12年=1937)という詩が元ネタでしょう。
値(あ)ひがたき智恵子
智恵子は見えないものを見、
聞えないものを聞く。
智恵子は行けないところへ行き、
出来ないことを為る。
智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、
わたしのうしろのわたしに焦がれる。
智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。
わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。
聞えないものを聞く。
智恵子は行けないところへ行き、
出来ないことを為る。
智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、
わたしのうしろのわたしに焦がれる。
智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。
わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。
画像は昭和42年(1967)公開、岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演の松竹映画「智恵子抄」のスチール写真です。
「値(あ)ひがたき智恵子」は、心を病んだ智恵子を謳った詩です。したがって、ちょっと場違いな引用かな、という気がしないでもありませんが、かえって智恵子は心を病んだことで、通常の状態では見えないもの、聞こえないものに気がついたと考えれば、そうした鋭い感覚、的な意味での引用はありかなとも思いました。
特に今日のような日――朝っぱらから大音量のイタい軍歌を流す街宣車が走り回っているような――に、こうした問題を考えることは重要なことだと思います。
【折々の歌と句・光太郎】
につぽんはまことにまことに狭くるし田夫支那にゆけかの南支那に
大正7年(1918) 光太郎36歳
「田夫」は明治28年(1895)生まれの画家・宅野田夫(たくのでんぷ)。洋画を岡田三郎助に、日本画を田口米舫に学びました。そしてさらに南画の技法をものにするため、この年、中国に渡ります。その送別の際に贈った歌です。
グローバルな視点で貪欲に絵画を習得しようとする若者には、アカデミズム主導のこの国の美術界は狭すぎると感じ、エールを送ったものと思われます。