当方も会員に名を連ねさせていただいている高村光太郎研究会発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』に、連載を持たせていただいております。
 
題して「光太郎遺珠」。筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』増補版が平成11年(1999)に完結しましたが、その後も見つかり続ける光太郎智恵子の文筆作品を集成しています。
 
平成18年(2006)に、光太郎没後50年を記念して、当会顧問・北川太一先生との共編で第一弾を厚冊の単行書として刊行しましたが、その後も続々と補遺作品が見つかり続けるため、現在はほぼ1年間に見つけた新たな文筆作品の集成として雑誌『高村光太郎研究』中の連載という形で続けております。
  
『高村光太郎研究』は4月2日の光太郎忌日・連翹忌の刊行。原稿締め切りが今月いっぱいということで、このたび脱稿しました。
 
今回の「光太郎遺珠」に載せた作品は以下の通りです。智恵子のものはなく、すべて光太郎の作品です。

短歌
金ぶちの鼻眼鏡をばさはやかにかけていろいろ凉かぜの吹く
九段下の書道用品店・玉川堂さん所蔵の短冊から採らせていただきました。明治末と推定できます。

散文
「貧弱なる個性の発露」 明治45年(1912)5月1日『東洋時論』第三巻第五号
信州安曇野の碌山美術館さん学芸員の武井敏氏からご教示いただきました。長い美術評論です。

「希望 親切な案内役を」 昭和23年(1948)11月7日『花巻新報』第七十二号
「岩手は日本の背骨 ノロイが堅実」 昭和24(1949)年9月28日『花巻新報』第百十五号
ともに岩手の地方紙『花巻新報』から。前者は創刊に寄せた談話筆記、後者は宮澤賢治に関わる講演の筆録です。後編のみ『高村光太郎全集』に既収ですが、前編を新たに見つけました。

「高村光太郎先生説話」
花巻郊外太田村の山口小学校で折に触れて語った光太郎の講演、談話を、同校校長の故・浅沼政規氏が筆録していたものです。膨大な量なので分割して掲載。今回は昭和25年(1950)上半期の分を掲載しました。

翻訳
「モンテスパンの序」 昭和4年(1929)3月10日『南方詩人』第六輯
ロマン・ロラン作の戯曲「モンテスパン夫人」の序文の訳です。原典は大正12年(1923)にアメリカで出版された同書の米国版です。昨年、雑誌『日本古書通信』に紹介されました。

書簡
長沼せき子宛 室生犀星宛 翁久允宛 「夜の鏡」幹事宛 佐伯郁郎宛(2通) 松下英麿宛 石川佀宛 西倉保太郎宛(4通) 旭谷正治郎宛(4通) 内村皓一宛(2通) 黒須忠宛
参考書簡 丹塚もりえ宛
書簡は毎年のようにたくさん見つかっています。リンクを貼った部分をご参照いただければわかりますが、足で集めてもいます。

アンケート000
a.画家が描くといふ事を如何にお考へになりますか b.画家に何を要求なされますか 昭和14年(1939)12月25日『美術文化』第二号

短句
針は北をさす
岩手県奥州市の佐伯郁郎生家・人首文庫さん所収の色紙から採録しました。

題字
『花巻新報』
『高村光太郎全集』別巻に不完全な記述がありますが、詳細な点が判明したので掲載しました。


ご協力いただいた団体、個人の皆様には感謝申し上げます。

『高村光太郎研究』第37号、4月2日の第60回連翹忌の席上で販売開始、頒価は1,000円の予定です。上記以外に北川太一先生の玉稿、やはり当方編集の「高村光太郎没後年譜 平成27年1月~12月/未来事項」なども載る予定です。ご入用の方は、こちらまでご連絡下さい。後ほど郵送いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

ふと見えて消しは神か水色のみけしさながら夜はあけにけり
明治34年(1901) 光太郎19歳

「みけし」は「御衣」。貴人の衣服を言う尊敬語です。「けし」は「着る」の尊敬語「けす」の名詞化。夜明けの清澄な空を「さながら」「水色のみけし」のようだと謳っています。