先週、『毎日新聞』さんの山梨版に、光太郎の名が載りました。
「小さな里に大きな宝」という連載で、これは以下のコンセプトでした。
山梨には地域を元気にする「宝」が数多く眠っている。それも都市部ではなく、小さな田舎に。その土地ならではの暮らしの知恵、文化、特産物を生かしながら、地元に新たな活力を吹き込もうとする動きも各地で相次いでいる。今年は、地方創生や人口減少対策など地域活性化の事業が本格化する。そのヒントを探るべく、各地の「宝」を訪ね歩いてみた。
その第6回(最終回)が以下の記事。
小さな里に大きな宝 富士川町高下地区 雄大な富士に抱かれて 当たり前のものが「特別
かじかむ手で、かまどにまきをくべる。赤い火がぱちぱちと音を立てた。カボチャや大根の入った鍋から白い湯気が上がる。「ほうとう、少し待ってね」。山口博子さん(37)が、ほの暗い土間から、大きな声を上げた。「こっちもまだまだだよ」。まきで風呂を沸かそうしていた、夫の宗一郎さん(33)が返した。
二人が仕事を辞め、都心に近い千葉県市川市から、富士川町高下(たかおり)地区に移り住んで今年で3年目になる。標高400~500メートルの集落は人口130人ほど。70代以上が4割近くを占める。空き家も目立つ。居間で寝息を立てている生後11カ月の長女未生(みお)ちゃんにとっては、ここが古里だ。
夫妻は、築130年といわれる古民家を改修して、農家民宿を営んでいる。ガスを引かず、田畑を耕して自給自足に近い生活をしようとしてきた。「田舎暮らしをスローライフなんて言うけれど、実際には忙しくて忙しくて」。そうこぼしながら、二人は高下地区の美点をいくつも挙げる。
「古い家を大切に残しているところ。おいしいユズがたくさん取れるところ。毎日、富士山を間近に見られること。受け入れてくれる地域の人の心が温かいこと……」。そしてこう漏らす。「素晴らしいところがいっぱいあるのに、ここの人たちは気づいていない。もったいないです」
夫妻は、地域の人を巻き込み、いくつか企画を立ててきた。昨年復活させた秋祭りもその一つ。甲州弁の「一緒に行こう」から取って「えべし高下秋祭り」と名づけた。山口さんのところに、年に何度も泊まりに来る千葉県市川市の自営業、島田憲二さん(61)、千恵さん(57)夫妻は話す。「ここに泊まると、お湯を沸かすのにさえ時間と手間がかかる。そんな生活をたまに味わえるのが楽しい」
高下地区で育った大森昭雄区長(75)は淡々と語る。「移住してくる人はいるけど都会育ちで、物珍しいから来るだけ。すぐ出て行ってしまう人もいる。田舎暮らしなんて魅力ないよ」。県内のあちこちで、似たようなセリフを聞く。
しかし大森さんの言葉には続きがある。「住民には、富士山も水も自然もマンネリになっている。でも、当たり前のものが特別なんだと、外から来た人は言いたいのかもしれないな」。口元は緩んでいた。掘り起こされていない宝は、きっと足元に埋まっている。【藤渕志保】=おわり
■ことば
高下地区
高下地区には県が選んだ「新富嶽百景」の一つ高村光太郎文学碑がある。近くの日出づる里農村公園は「ダイヤモンド富士」の撮影スポットとして知られ、毎冬、県内外から多くの人が訪れる。ユズも特産で、日中と夜の温度差が大きい山間地の気候などが適しているという。ここから下った所にある小室地区を含めた旧穂積村では毎年11月に「ゆずの里まつり」を開いている。山口夫妻の宿泊施設「ワールドカフェゲストハウス」でも12月ごろ、ユズの収穫体験を楽しめる。
舞台は山梨県南巨摩郡富士川町。かつて増穂町と行っていた区域です。記事にもあるとおり、「ダイヤモンド富士」のスポットとして有名です。これは、冬至の前後、日の出が富士山頂に重なるという現象です。
ここになぜ光太郎の碑があるのかというと、昭和17年(1942)、山梨県南巨摩郡穂積村字上高下(かみたかおり)-現・富士川町の井上くまを訪問したことに由来します。
この年発足し、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会の事業で、黙々とわが子を育み、戦場に送る無名の「日本の母」を顕彰する運動の一環です。軍人援護会の協力の下、各道府県・植民地の樺太から一人ずつ(東京府のみ2人)「日本の母」が選考され、光太郎をはじめ、当代一流の文学者がそれぞれを訪問、そのレポートが『読売報知新聞』に連載されました。さらに翌年には『日本の母』として一冊にまとめられ、刊行されています。
井上くまは、女手一つで2人の息子を育て、うち1人は光太郎が訪ねた時点で既に戦病死、しかしそれを誇りとする、この当時の典型的な『日本の母』でした。
光太郎はまた、『読売報知新聞』のレポート以外にも、くまをモデルに詩「山道のをばさん」という詩も書いています。
山道のをばさん
汽車にのり乗合にのり馬にのり、
谷を渡り峠を越えて又坂をのぼり、
甲州南巨摩郡の山の上、
上高下(かみたかおり)といふ小部落の
通称山道(やまみち)のをばさんを私は訪ねた。
「日本の母」といふいかめしい名に似もやらず
をばさんはほんとにただのをばさんだつた。
「遠いとこ、さがしいとこへよくお出でしいして」と、
筒つぽのをばさんは頭をさげた。
何も変つたところの無い、あたり前な、
ただ曲つた事の何より嫌ひな、
吾身をかまはぬ、
働いて働いて働きぬいて、
貧にもめげず、
不幸を不幸と思ひもかけず、
むすこ二人を立派に育てて、
辛くも育て上げた二人を戦地に送り、
一人を靖國の神と捧げて
なほ敢然とお国の為にと骨身を惜しまぬ、
このただのをばさんこそ
千萬の母の中の母であらう。
あけつ放しなをばさんはいそいそと、
死んだむすこの遺品(かたみ)をひろげて
手帳やナイフやビールの栓ぬきを
余念もなくいじつてゐる。
村中の人気がひとりでにをばさんに集まり、
をばさんはひとりでに日本の母と人によばれる。
よばれるをばさんもさうだが
よぶ人々もありがたい。
いちばん低い者こそいちばん高い。
をばさんは何にも知らずにただうごく。
お国一途にだた動く。
「心意気だけあがつてくらんしよ」と、
山道のをばさんはうどんを出す。
ふりむくと軒一ぱいの秋空に、
びつくりする程大きな富士山が雪をかぶつて
轟くやうに眉にせまる。
この富士山を毎日見てゐる上高下の小部落に
「日本の母」が居るのはあたりまへだ。
谷を渡り峠を越えて又坂をのぼり、
甲州南巨摩郡の山の上、
上高下(かみたかおり)といふ小部落の
通称山道(やまみち)のをばさんを私は訪ねた。
「日本の母」といふいかめしい名に似もやらず
をばさんはほんとにただのをばさんだつた。
「遠いとこ、さがしいとこへよくお出でしいして」と、
筒つぽのをばさんは頭をさげた。
何も変つたところの無い、あたり前な、
ただ曲つた事の何より嫌ひな、
吾身をかまはぬ、
働いて働いて働きぬいて、
貧にもめげず、
不幸を不幸と思ひもかけず、
むすこ二人を立派に育てて、
辛くも育て上げた二人を戦地に送り、
一人を靖國の神と捧げて
なほ敢然とお国の為にと骨身を惜しまぬ、
このただのをばさんこそ
千萬の母の中の母であらう。
あけつ放しなをばさんはいそいそと、
死んだむすこの遺品(かたみ)をひろげて
手帳やナイフやビールの栓ぬきを
余念もなくいじつてゐる。
村中の人気がひとりでにをばさんに集まり、
をばさんはひとりでに日本の母と人によばれる。
よばれるをばさんもさうだが
よぶ人々もありがたい。
いちばん低い者こそいちばん高い。
をばさんは何にも知らずにただうごく。
お国一途にだた動く。
「心意気だけあがつてくらんしよ」と、
山道のをばさんはうどんを出す。
ふりむくと軒一ぱいの秋空に、
びつくりする程大きな富士山が雪をかぶつて
轟くやうに眉にせまる。
この富士山を毎日見てゐる上高下の小部落に
「日本の母」が居るのはあたりまへだ。
昭和62年(1987)には、光太郎が高下を訪れたことを記念して、光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」という短句を刻んだ碑が建てられました。
悲惨な戦争の被害者を美化する詩、という意味では負の遺産ともいえるものですが、当時の国民一般の心境としてはこうだったわけです。
さて、富士川町高下地区、この碑があるからといって、多くの人が訪れるわけではありませんし、ダイヤモンド富士も期間が限られています。普段は本当に記事にある通り「住民には、富士山も水も自然もマンネリになっている。」状態なのでしょう。しかし、「当たり前のものが特別なんだと、外から来た人は言いたいのかもしれない」という部分にもうなずけます。
「当たり前」の良さを「当たり前」に継承して行くことこそ、真の地方創成につながるような気がします。
【折々の歌と句・光太郎】
オリオンが八つかの木々にかかるとき雪の原野は遠近を絶つ
昭和22年(1947) 光太郎65歳
花巻郊外太田村での作。「八つか」は現地の方言だと思いますが、ハンノキのことです。
この季節、深夜2時頃にはオリオン座が西の空に傾いています。昨夜というか、今日未明、我が家の老犬と散歩しながらそれを見て、この歌を思い出しました。
老犬、北方系の血を色濃く受けているようで、毎年、真冬になると恐ろしく元気になり(光太郎か! と突っ込みたくなります)、真夜中に「散歩に連れて行け」と吠えます。無視すると吠え声が近所迷惑なので、しかたなくつきあっています。